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2017/08/26(土)
魚の小骨(28)日本兵は人にあらず!?
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昨日は「天が今にも泣きそうだ」と思ったところ夕方から本当に泣き出した。今日も曇天、泣くのだろうか。泣いて報告したのは牟田口中将付きの斎藤少尉でした。NHK のインタビューに答えて。彼は「軍上層部は兵隊を(牛や豚なみ)人と思っていなかった。これを知ってしまったぼくは悲しいです」と目を腫らし、うつむいて答えていました。斎藤少尉は連合軍の捕虜となってから帰国しました。その時には彼は日記を持って行かなかったようです。病気になり撤退できなかった彼は撤退する誰かに日記を預けていたのかも知れません。記者に「(日記を)持ってらっしゃったのですか」と尋ねていました。最悪無謀な作戦と称されたインパール作戦は1944(昭和19)年3月8日に決行されました。日本軍がビルマを占領した際英軍はインドに撤退しました。その作戦指揮の本部の置かれた場所がインド北東部のインパールでした。ビルマ及びインドのこの一帯は世界一降雨量の多い熱帯の密林です。ビルマとインドのインパールの間には最大幅600mにも及ぶチンドウイン川が流れています。しかも高度2千m級の山々が連なっています。道もありません。そこを470kmも行軍するのですから食料、武器、弾薬などが持つはずがありません。牟田口中将が持たせた食料は3か月分。3か月で落とせとの無理難題の命令でした。牛1万頭、ヤギなども現地調達。不足する食料は現地調達せよとのこと。しかし、ジャングルでの食料調達は無理。何といっても少数民族の部落が点々と存在するだけですから。15軍は左から、33軍は南から、31軍は左より北へ回りコヒマヘ(インパールを攻略するための挟撃作戦として)。当然、作戦部長は兵たんが確保不能として反対。しかし、牟田口中将は「卑怯者!ヤマト魂はあるのか!」と一括し、「反対者を黙らせた」と斎藤少尉は日記に書いています。また、牟田口中将が「わしは盧溝橋で戦いの先端を開いた。最後を締めくくるのもわしの責任だ」とも。そして、反対者を解任し、インパールを攻略する作戦を大本営に働きかけたと言う。大本営がこの作戦を採用した背景は盧溝橋を共に戦った友人たちが人情的に賛成した結果だと言うのです。ここには戦況を冷徹に見定めようとする姿勢がまったくありません。その結果は惨憺たるものでした。まず、3か月でインパールへの到達すること自身が不可能でした。そして、アメーバ赤痢などの病気での死亡。チンドウイン川の渡河も難儀を極め、牛の半数は流されたと言います。インパールやコヒマヘ到達する以前に兵士は死亡者が続出、生存者もへとへとでした。
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