たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2016年11月
前の月 次の月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
最新の絵日記ダイジェスト
2023/12/25 胃を4分の3切除
2023/04/05 昨日「胃がん」だと告げられた!
2022/11/07 地獄飯
2022/10/23 もんもんとして
2022/10/05 紅葉

直接移動: 202312 4 月  202211 10 9 8 7 5 4 月  20217 6 5 4 3 2 月  202011 10 9 月  20194 3 2 1 月  201812 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201612 11 10 3 2 1 月  201512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201412 11 10 9 8 7 5 4 3 2 1 月  201312 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201212 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  201112 11 10 9 8 7 6 5 4 3 1 月  201012 11 10 6 5 4 3 月  200912 11 10 8 7 6 4 月  200812 11 10 8 6 5 4 3 1 月  200712 11 10 9 7 6 5 4 3 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 月  200512 11 月 

2016/11/17(木) 日露の領土問題について(17)
しかし、サ条約にはスターリンとの約束を履行するためトルーマンはヤルタ協定に基づく「千島列島の放棄」を条項に入れた。これは明らかにカイロ宣言に背くものであった。だが、日本政府は日本はこの協定に拘束されないと主張するものの不当であったと批判したことが一度もない。その理由は千島放棄条項がアメリカの要求で入れたからではないか。それ以外に日本が批判しない理由が見つからない。いずれにしてもこのサ条約で日本は形の上では独立国となった。サ条約に調印しなかったソ連とは4年後の1956(S31)年に日ソ共同宣言の締結をおこない、国交を回復した。この時、日ソ間で歯舞群島及び色丹島を譲渡するという話が進んだ。しかし、日本側は国後島、択捉島を含む4島返還を主張したため、交渉は頓挫し、領土問題の進展を見ないまま今日に至っている。この時の4島返還にはアメリカの4島を主張せよと要請があったと聞いている。日ソ共同宣言条約第21号は次のとおりである。

2016/11/16(水) 日露の領土問題について(16)
国後、択捉は千島列島に含まれないというぶざまな認識の変更はアメリカの要請によるものであろう。日本が武力で奪ってきた朝鮮半島を含む北方から南方の島々に至るまで1945(S25)年の無条件降伏により日本は支配権を放棄させられた。そこで例えば朝鮮半島では翌年(S21)2月8日北部に臨時人民委員会が設立され、20日に正式に人民委員会が立ちあげられ、8月には国家をめざす動きが始められた。これに対抗し南部では6月に李承晩が「ソ連を排斥した国家をめざす」と立ち上がった。その翌年(S22)、アメリカ大統領トルーマンは反共活動を支援するトルーマン・ドクトリンを表明した。そしてその翌年(S23)8月15日大韓民国樹立、9月9日北朝鮮が独立。南北朝鮮は分離独立した。以後南北戦争に突入することとなる。朝鮮戦争である。この戦争には米ソ以外にそのまた翌年(S24)には成立したばかりの中華人民共和国も参戦した。米ソの対立は激しさを増し、例えば日本に於いてはレッドパージが開始され、警察予備隊が設置された。不戦・平和を誓った日本国憲法はアメリカの主導のもとに早くもその誓いを破る第一歩を踏み出すこととなった。以後保安隊設置、自衛隊へと名前を変えた軍隊へと変貌してゆくこととなる。また、マッカーサーは日本共産党中央委員会を追放する指令を出し、弾圧した。このような状況下でサ条約が提出され、締結された。從って、このサ条約にソ連が署名していないのは当然のことである。米ソが対立する中でのサ条約の締結と国後、択捉などの4島返還問題は当然日米安保条約が弊害となることは明らかであった。

2016/11/15(火) 日露の領土問題について(15)
まず第一に日本政府がこれまで主張してきた「択捉、国後は千島ではない。だから4島返還を」は正しいのであろうか。吉田茂首相はサンフランシスコ会議で「択捉、国後の2島は千島南部の2島であり、得撫以北の北千島と併せて千島列島」だと明白に表明している。又、サ条約を批准した日本の1951年の国会でも「条約にある千島列島の範囲は北千島と南千島の両者を含むと考えております」と西村熊雄条約局長が日本政府の公式見解として表明しています。以後この見解が日本政府の公式見解として繰り返し表明されてきました。ところが4年後の1955年になって日本政府はこの見解を覆す見解を表明するようになりました。米英仏の3か国に対し「サ条約にいう千島列島とは国後、択捉両島を含まないものと理解していたか」との質問をまず出しました。アメリカは「択捉、国後が千島の一部でないという理由で返還するようソ連を説くことに反対しない」と回答。しかし、イギリスは「アメリカの見解に同意できない」、フランスは「サ会議議事録は千島の範囲に言及している。日本代表は国後、択捉を南千島だと言っている」と回答しています。何故日本政府は突如として国際会議で表明し、サ条約を批准した国会以後繰り返し表明してきた千島列島の範囲の見解を変えたのであろうか。

2016/11/14(月) 日露の領土問題について(14)
1951(S26)年9月8日、サンフランシスコで第2次世界大戦終結のための講和(平和)条約が締結された。この条約の2条C項で日本は「千島列島・・・に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する」との宣言に署名し、千島列島を放棄した。しかし、この2条C項はカイロ宣言に違背するヤルタ協定に基づくものである。アメリカのトルーマンは米軍兵士の死亡者を極力少なくするためにソ連の対日戦への参戦を要求し、ソ連のスターリンは対ドイツ戦で疲弊した国内の厭戦気分の高揚を抑えながら戦後の影響力低下を避けるためにこれに応じたという両大国の利害と思惑が一致した妥協の産物がヤルタ協定である。日本政府は敗戦後70年を過ぎた現時点においての判断として「連合国の第2次世界大戦処理方針カイロ宣言に立ち返っての処理」を求めるべきではないだろうか。1875(明8)年に旧ロシアと日本との間で平和裏に締結された樺太と千島列島を交換した条約が領土問題解決の前提とされて当然ではないだろうか。日本政府は「国後、択捉は千島列島ではない。歯舞、色丹は北海道の一部。だから4島返還を」と主張してきたがこの主張の誤りを是正する必要があるのではないだろうか。

2016/11/13(日) 日露の領土問題について(13)
ソ連・極東軍の占領が「連合軍一般命令第1号(陸、海軍)」によっておこなわれたことは以前述べたとうりですが、翌年1月、連合国軍最高司令官訓令により日本は「竹島、琉球、千島、歯舞群島、色丹島、南樺太などの地域の行政権行使を正式に中止」させられた。日本が無条件降伏文書に署名をしてから4ヵ月目のことである。こうして日本は連合国軍の占領下に置かれた。日本国民は食べるものさえろくに無い最悪の占領時代を北海道以南は米軍の下で、千島列島などはソ連領として。そして、7年の占領時代を経て、サンフランシスコ講和条約の発効により(名目的)独立を回復することになるのであるが、未解決の問題は日米安保条約の鎖からの解放と千島列島全島の返還問題である。カイロ宣言の趣旨に沿えば当然の措置である。アメリカに於いてはトランプ氏が大統領に来年1月就任されることとなった。彼は日本に「米軍経費の全額負担」「核兵器保有」を大統領選の公約の中で口にしている。そうであるならば安保条約を破棄し、対等な立場での平和条約を締結するのが常識的解決法であると思われる。また、旧ソ連の領土を引き継いでいるロシアは千島列島を全島日本に返還して平和条約を締結すべきであろう。これを前提とした日露交渉が必要だとわたしは思う。そのためにはまずサンフランシスコ講和条約を見ておく必要がある。

2016/11/12(土) 日露の領土問題について(12)
ソ連第二極東軍は日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏を表明する玉音放送がおこなわれた4日前の8月11日に日ソの国境を越え南樺太に侵攻した。そして、8月25日に南樺太を占領した。既にトルーマンと千島列島をソ連領とする了解を得ていたソ連は9月1日までに択捉、国後、色丹を、5日には歯舞諸島を占領した。一方、カムチャッカからは8月18日に第1極東軍が千島列島に侵攻した。23日まで日本軍守備隊と交戦し、日本軍が勝利したが、玉音放送で敗戦が確定していたため日本軍は武装解除。8月31日には得撫島以北の北千島はソ連軍の制圧下に置かれた。こうして翌年の1月29日、GHQ指令第677号により南樺太、千島列島、歯舞、色丹などの地域の日本の行政権が停止され、ソ連の行政管轄区域となった。2月2日、ソ連邦最高会議指令でサハリン島南部(南樺太)及びクリル諸島(千島列島)は1945年9月2日に遡ってソ連邦の領土であることが宣言されたのであった。当時日本国民はおよそ1万7千人住んでいたが、直ぐに本国帰還は許されなかった。この年の12月、GHQとソ連の間で日本人の引上げが合意されて後、3年後の7月までにはほぼ全員が帰国出来たのであった。しかし、GHQの指令により日本国籍を離脱していた朝鮮の人たちはその後も帰還出来ず、多くの方々がサハリン(樺太)に移住することとなった。罪なき人々のこうした苦しみを生み出した戦争の責任は一体誰が背負わなければならなかったのか。未だ未解決のままであると思われる。

2016/11/11(金) 日露の領土問題について(11)
余談ながら最近ロシアに於いてスパイ・ゾルゲが再評価されているので触れておきたい。ヨーロッパ戦線に於いてスターリン率いるソ連が勝利できたのはゾルゲの情報に基づくところが大きい。スターリンはゾルゲの情報により「日本が対米戦を決意し、ソ連領への進行がない」ことを確信し、極東配備の軍隊をモスクワに侵略するドイツ軍との戦闘に投入するとともに、アメリカ・トルーマンが要求する極東への米軍航空基地建設を拒否することができた。もし、この判断を誤っていれば、モスクワはドイツ軍の手に落ち、米軍は現ロシア領に米軍基地を置いていたかも知れないのであった。日本に現在も多くの米軍基地が置かれているように。ゾルゲは日米開戦直前の1941年4月からドイツのフランクフルタ―・ツアイトゥング紙の記者として東京に在住していた。ゾルゲの諜報団には朝日新聞社記者の尾崎秀美やマックス・クラウゼンらがいた。彼らの大半は日本軍がハワイを奇襲攻撃する3、4か月前に逮捕されている。何故参謀本部は「情報が洩れているであろう。作戦の変更を」と考えなかったのであろうか。日本軍上層部の頭の硬直性が伺える一例であろう。又、軍事情報のスパイは陸軍憲兵隊の管轄であるが、コミンテルンのスパイとして特別高等警察(特高)が取り扱っている。彼らは警視庁特高第一課及び外事課にスパイ容疑で検挙されている。この辺りにもタテ社会の縄張り意識の弊害が見え隠れしているのではないかと思える。情報の共有がどの程度であったのか?大組織の運営の参考になるとも思える。

2016/11/10(木) 日露の領土問題について(10)
1945(S20)年2月にソ連のヤルタで米英ソの首脳会談がおこなわれた。ここで戦勝国としての権益の分割が協議された。ソ連には対日参戦の見返りとして日本の敗戦後、南樺太のソ連への返還及び千島列島をソ連に引き渡すことが決められたのであった。4月5日ソ連は日ソ中立条約を破棄すると通告し、8月8日対日宣戦を布告し対日戦に突入した。こうした状況下で8月14日日本は御前会議において米英中ソの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾し、9月2日無条件降伏文書に調印した。同時に一般命令第一号(陸・海軍)により、満州、北緯38度線以北の朝鮮、南樺太、千島諸島の先任指揮官並びに一切の陸・海・空とその補助部隊はソビエト極東軍司令官に降伏すべきとされた。トルーマンの「一般命令第一号」の原案には千島列島の日本軍がソ連に降伏するとされていなかったのでスターリンはヤルタ協定の実行を要求し、トルーマンはこれを受け入れた。併せて、スターリンが要求した北海道東北部の占領はヤルタ協定には無いと拒否した。この時、トルーマンがスターリンの要求を拒否していなければ、現在まで北海道東北部はソ連領(現ロシア領)であったのではないかと思われる。

2016/11/09(水) 日露の領土問題について(9)
テヘラン会談の直前に米英中三国の首脳会談が開催された。「日本の侵略を阻止し、無条件降伏をさせること。そして、第一次世界大戦以後日本が略奪した太平洋諸島の領土はく奪、台湾、満州の返還など日本が暴力・貪欲により略取した地域から駆逐すること。連合国は領土を拡大しないこと」などが確認された。領土不拡大を原則とするカイロ宣言である。当然この時点では南樺太、千島列島は含まれてはいなかった。この後、開かれたのがテヘラン会談である。ルーズベルトとチャーチルは1944(S19)年5月までに欧州第二次戦線を開始することを約束し、スターリンはドイツ敗戦後対日戦争に参加することを約束した。そして、その見返りとしての要望は後に明らかにすることとされた。これによりカイロ宣言の領土不拡大が破棄されることになったのであるが、アラブの人々を騙したと同じく英国と米国はここでも二枚舌を使ったのであった。同年12月14日、スターリンは南樺太、千島列島などの領有を要求した。これが後のヤルタ協定に盛り込まれる事になったのであった。

2016/11/08(火) 日露の領土問題について(8)
なぜ?の答はヤルタ協定にあるが、米英ソのカイロ宣言に見られる民主主義的方針の放棄にあった。そこでそれ以前の経過について少し見て置くこととする。1941(S16)年、日本がアメリカの真珠湾を攻撃する前のことだが、ルーズベルト大統領はスターリンに日本軍がソビエトの沿海州を攻撃するという情報を届け、ソ連領極東地域に米軍の空軍基地の建設とアラスカ経由による航空機輸送を提案した。しかし、スターリンは諜報機関から「日本が米国との戦争を決意し、ハワイを奇襲する」ことを知っていたので米軍の爆撃基地建設の提案を拒否した。そして翌年6月ルーズベルトはスタンリー将軍に親書という形で再度極東での米軍基地建設を求めたがスターリンはこれも拒否した。その翌年の10月、モスクワにおいて米英ソ三国会談が開かれ、クレムリンのエカテリーナ宮殿の晩餐会でハル国務長官にスターリンは「ドイツ戦が終了したら対日参戦する」と耳打ちし、ソ連側の意向をマル秘事項として米英に伝えたという。そして11月末イランのテヘランにおいて米英ソ首脳会談が開かれることとなる。ここにはそれぞれの思惑と共同の敵(日独伊)に対処する方針の探索の神経戦が見てとれるが、その内容は?

11月絵日記の続き


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.