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2016/11/08(火)
日露の領土問題について(8)
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なぜ?の答はヤルタ協定にあるが、米英ソのカイロ宣言に見られる民主主義的方針の放棄にあった。そこでそれ以前の経過について少し見て置くこととする。1941(S16)年、日本がアメリカの真珠湾を攻撃する前のことだが、ルーズベルト大統領はスターリンに日本軍がソビエトの沿海州を攻撃するという情報を届け、ソ連領極東地域に米軍の空軍基地の建設とアラスカ経由による航空機輸送を提案した。しかし、スターリンは諜報機関から「日本が米国との戦争を決意し、ハワイを奇襲する」ことを知っていたので米軍の爆撃基地建設の提案を拒否した。そして翌年6月ルーズベルトはスタンリー将軍に親書という形で再度極東での米軍基地建設を求めたがスターリンはこれも拒否した。その翌年の10月、モスクワにおいて米英ソ三国会談が開かれ、クレムリンのエカテリーナ宮殿の晩餐会でハル国務長官にスターリンは「ドイツ戦が終了したら対日参戦する」と耳打ちし、ソ連側の意向をマル秘事項として米英に伝えたという。そして11月末イランのテヘランにおいて米英ソ首脳会談が開かれることとなる。ここにはそれぞれの思惑と共同の敵(日独伊)に対処する方針の探索の神経戦が見てとれるが、その内容は?
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