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2016/10/26(水)
日露の領土問題について(4)
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日露和親条約は伊豆・下田の長楽寺で締結された。日露通好条約、また下田条約とも言われる。幕府側は大目付格筒井政憲と川路勘定奉行、ロシア側は提督プチャーチンであった。主な内容は「千島列島の両国の国境はエトロフ(択捉)島とウルップ(得撫)島の間とする」「樺太には国境を画定せずこれまでの慣習どおりとする」「ロシア船の補給港として函館、下田、長崎を開港する」「ロシア領事を駐在させる」などである。樺太の国境が画定しなかった理由は日露両国の主張が対立したためである。ロシア側は樺太の最も南部のアニワ湾周辺を主張したが、幕府側は北緯50度付近を主張した。幕府側交渉担当者の意地であろうか。勘定奉行川路の老中にあてた書簡では「日本の会所が出来ているのはアニワ湾周辺だけでそれより奥地へは探検家が入った程度である。長崎では北緯50度で分ける案を出したがどこで分けるかの定見はない。不毛の樺太を捨てても一向に差し支えない」と申述していることから察するに「我らは列強の横暴には屈せず」との意気込みと意地が感じ取れる。しかし、この心意気が後々の樺太と千島列島を交換するという慶事に至ることになろうとは本人たちも知り得なかったことである。
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