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2016/10/25(火)
日露の領土問題について(3)
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1853(嘉永6)年アメリカ合衆国代将・ペリー率いる東インド艦隊の艦船4隻が久里浜から幕府に誘導され浦賀に来た。煙突からもうもうと煙を吐く帆と外輪を持つ蒸気船・黒船の来港である。大砲は合計73門あり、号砲、礼砲、祝砲等の名目で数十発の空砲を撃ったが、事前に知らせはあったものの江戸は大混乱におちいったという。おりしも時の将軍家慶は病床にあり国事を決定出来る状況にはなかった。ペリーは威嚇を与え続け、1年後再度来航するとして引き上げた。その10日後、家慶は死去した。ペリーは琉球を経て香港へと向かった。幕府はアメリカとの戦いに備えて江戸湾警備を増強するため砲撃用台場を造らせたり、洋式帆船を起工した。香港で将軍の死を知ったペリーはこの混乱時に虚を突くべしと半年で再度来航した。今度は9隻であった。約1か月の協議の末、幕府はアメリカの開国要求を受け入れたのであった。そして12か条になる日米和親条約(神奈川条約)を締結した。翌月細則を定めた下田条約を締結した。しかし、アメリカは熾烈な南北戦争に突入したため日本や清国に対する影響力を失い、代わってイギリス、フランス、ロシアが関係を強め、影響力を拡大した。日米和親条約締結から約7カ月後の1855年2月7日に日露和親条約が締結された。その内容には日露の国境を定めることが追加されていた。
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