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2016/10/24(月)
日露の領土問題について(2)
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この一帯の土地はそもそもアイヌの人々が暮らしていた土地であった。その土地を北からロシア、南から日本が逐次占領していった歴史がある。1644(正保1)年、徳川家光の命により作成された「正保御国絵図」には松前藩が支配する蝦夷地として北海道本島を初め樺太、千島列島も記載されていた。もちろん国後島、択捉島も記載されている。また、1715(正徳5)年には将軍・徳川家継に松前藩は勘察加(カムチャッカ半島)まで領土だと報告しているが、その9年前の1706年には同島はロシアにより占領されていた。日露両国の領土はまだまだこの時代には確定もせず、曖昧なものであった。日露の国境が問題となるのはアメリカ東インド艦隊ペリーが来航した年である。この年にはロシア艦隊のプチャーチンも長崎に来て通商を要求している。これを受け、日米和親条約、日英和親条約、日露和親条約等が締結されることとなった。
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