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2015/05/05(火)
倭奴国とは?
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今日はこどもの日だ。鯉幟を上げるお家も少なくなった。この界隈でも1軒のみである。古代の子供たちはどんな遊びをしていたのだろう?志賀島では貝堀をしていたに違いない。5月だもの。さて、「漢委奴国王」の金印はなぜ志賀島に埋められていたのか。倭奴国と邪馬台国は一緒なのか。それとも違う国なのか。印綬は伊都国にされたのか。奴国にされたのか。もういちど戻ってみなければならない。伊都国説の問題点は「奴」は(な、ぬ)とは読むが(と、ど)とは読まない。だから学校で教えている通り「かんのわのなのこくおう}と読むのだというのが奴国説派だ。これに対し、伊都国説派は上古北方漢音では(と、ど)と呼んだのだと主張し、「かんのいとこくおう」と読むのだとしている。今一つの相違点は、奴国説派の21か国中最後の奴国を2万余戸の奴国と著者が間違えて記述したというのに対し、伊都国説派がそんな単純なミスをするはずがないと指摘しいる点だ。これに対し、小平氏は「倭奴」の奴は蔑称であり、倭国を指すと第3の説を唱えておられる。金印は一体なぜ志賀島に埋められていたのか?倭奴国とはどこなのか?が問題である。藤堂明保氏編になる「学研漢和大辞典」によると、「奴」は中国上古音では「nag」と発音し,中国中古音では「no」(ndo)と発音したという。時代でいうと金印の印綬された後漢の時代は上古音であり、中古音にあたる隋・唐の時代でも主流は(の)の音としている。(ど)音はカッコつきだとしている。そうすると、伊都国説は「ない」と判断せざるをえない。
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