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2015/05/04(月)
綿津見神は志賀島だった
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昨日は朝早くから町内総出で畔の草刈、水路清掃、空き地の草刈り等をおこなった。古来からおこなわれてきた田植えの前の一大行事ではなかったかと思われます。午後から降り続いた雨も今朝は上がり、今はまだ曇っていますが、まもなく晴れてくるのではないかと期待しています。さて、住吉大神は日向の小門(おど)だというところまで辿りつきましたが、阿曇連(あづみのむらじ)はどこで綿津見の神々をお祀りしていたのだろう?もういちど小平氏の調査結果にもどってみよう。彼は「古代より阿曇家が祭ると伝えられ、現代に至ってもその子孫が祭祀を執り行っている神社は全国に1社しかない。福岡市志賀島の志賀海神社である。住所は福岡市東区志賀島字勝山877番地。旧官幣大社(宮内省による戦前までの制度)であり、底津綿津見神、仲津綿津見神、表(うわ)津綿津見神を祭っている。宮司は2008年1月現在、阿曇磯和氏である。神社の由緒も古事記に見られる綿津見神の3柱を神裔阿曇族によって奉斎されている」と記しています。間違いなく志賀島なのです。邪馬台国・卑弥呼の神々である綿津見神々を奉斎する志賀海神社まではやっとたどり着きました。それでは卑弥呼の邪馬台国は「漢委奴国王」の金印が印綬された倭奴国と同一なのでしょうか。倭国大乱は146年〜189年。卑弥呼共立が178年〜184年。金印印綬から卑弥呼共立まで約120〜130年という時の経過があるのです。そのうえ、倭国は卑弥呼が共立されるまでの間、大乱の時期を経ているのです。倭国大乱により金印は遺棄された説も説得力がないとは言えません。中国は後漢の時代、朝鮮半島は弁韓、馬韓、辰韓の時代である。志賀島が博多湾の入り口であり、蒙古の元が攻めてきた歴史を語る蒙古塚も残されている志賀島は当時の重要な地であったことは間違いないはずです。
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