たばたけんじの日記 (田畑 賢司)
元 岡山市議会議員 田畑けんじ の日々思うこと…
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2015/04/15(水) 4.6の旅行記にもどって
では、もう一度4月6日に戻ってみよう。伊都国の場所はわかりました。奴国もわかりました。それでは倭奴国とはどこなのか?魏が治めている朝鮮半島の役所の置かれていた帯方郡(現在のソウル市付近)からの遣倭使の旅程距離は合計すると1万6百里になる。不弥国までの百里を足すと1万7百里となる。さらに魏志倭人伝には帯方郡より女王国までの距離は1万2千余里であると記されている。となれば、卑弥呼のいた女王国までの残す距離は1千3百余里となる。文献によればこの時代の1里はとても短いようだ。現在の1里とは違って80mから100mのようである。そうすると1300x80=104km〜1300x100=130kmとなり、いくら遠くても九州地区と考えざるをえなくなる。小平氏の言うとおりだ。が、女王国・邪馬台国は北九州説、近畿説論争に加え、最近では出雲説や丹波・丹後説などもだされ、さらに吉備説を唱える人たちも出てきている。しかし、魏志倭人伝に見る帯方郡からの距離からすれば九州以外にはないと思えるのだが、さて、悩ましいのはこの1万2千余里の距離記載の前の投馬国と女王国の記述にかかる水行20日、水行10日陸行1月の記述である。女王国が九州でなければ他は方角の記述がまったく違うことになる。少なくとも朝起きて日の出を拝み、夕暮れの夕日を見るならば真方位から45度の違いは生じても東が南になるという90度の誤差は生まれないと思う。はてさて、どうしたものか。

2015/04/14(火) しかし・・・?
しかし、またわからなくなってきた。「委奴国」を「わなこく」と読み、伊都国でもなく、奴国でもないとするならば、そしてそれが倭国のことであるならば、どうして金印が志賀島の南端で発見されたのであろうか、という原点にまた舞い戻ってしまうのです。「伊都国」であるならば、糸島市及びその周辺で発見されていなければおかしいことになる。伊都国の中心と考えられる糸島平野にある三雲南小路遺跡(糸島市)には紀元前1世紀の王墓があるので可能性はなくはない。しかし・・・?それでは、もし「奴国」であるならば福岡市・春日市及びその周辺の福岡平野で発見されていてしかるべきだ。なぜ志賀島の南端なのだ。奴国の中心と考えられる須玖岡本遺跡(春日市)からは紀元前1世紀の前漢鏡が出土している。伊都国よりもこちらのほうが可能性が高いといえば高い。だが?

2015/04/13(月) 背の低い醜い奴隷のような国
ご支援ありがとうございました。みなさん無事に良い成績で当選できました。感謝、感謝です。さて、しばらくお休みしてしまいました。申し訳ありませんでした。それでは、続きを。「漢委奴国王」とは学校で先生に教えられたとおり「かんのわのなの国王」と読むのか。「いと」なのか、それとも「わのな」なのか。小平氏の説を読ませていただくと「それもそうか」と思う気がしてきています。彼は「わな」だと言うのです。「わなにはめよう」と言うのではありません。委は倭の人偏を省略したものだといいます。他の文献を調べてみても印の文字は省略字が多いということもわかりました。「奴」は蔑称文字を加えたものだというのです。従って、「委奴」つまり「倭奴」とは「奴隷のような背の低い醜い」という意になるので「かんのわな国王」と読むべきであり、倭国そのものを指しているのだと主張されています。伊都国でも、奴国でもないのであって「倭国」そのものを指しているというのです。もう少し調べてみる必要がありそうです。中国古代王朝が紀元前から日本列島人を「倭」(ワ、ヰ、ウエイ、ウオー)と呼んでおり、中国人歴史学者の王勇氏は「中国の史書に現れる倭人の住居地は初めから日本列島を指す」としています。日本列島側では「倭」は(わ、やまと)と呼んでいました。ではなぜ「倭」が「和」となり、「大和」となり、「日本」と変遷したのであろう?*ウエイは(中国南方音)、ウオーは(中国北方音)です。

2015/04/06(月) 遣倭使の旅行記より
三国志・魏志倭人伝を再度整理してみよう。朝鮮半島の帯方郡(ソウル市付近)から倭へ行くには「朝鮮半島を海岸伝いに南に行ったり東に行ったりしながら海上を行くと狗邪韓国に着く。ここまでの距離は7000余里である。海を渡ると1000余里で対馬国に着く。更に南に海を渡ると1000余里で一支国(壱岐)に着く。更に海を渡ると1000余里で末蘆国(松浦郡)に着く。陸上を東南に500里行くと伊都国(糸島平野)に着く。東南に奴国がある。距離は100里である。南に投馬国がある。海上を20日かかる。南に邪馬台国がある。女王の都する所である。海上を10日、陸上を1月かかる。次に斯馬国がある。次に己百支国がある。次に郡支国がある。次に弥奴国がある。次に好古都国がある。次に不呼国がある。次に姐奴国がある。次に対蘇国がある。次に蘇奴国がある。次に呼邑国がある。次に華奴蘇奴国がある。次に鬼国がある。次に為吾国がある。次に鬼奴国がある。次に邪馬国がある。次に*(身偏に弓)臣国がある。次に巴利国がある。次に支*国がある。次に烏奴国がある。次に奴国がある。ここは女王の境界の尽きる所である。これらの国々の南に女王の勢力範囲に入らない狗奴国がある。帯方郡より女王国までの距離は12000余里である。・・女王国の東、海を渡ること1000余里の所に国がある。倭人と同種である。その南に侏儒国がある。この国の人々は身長が3〜4尺である。女王国から4000余里の所である。その東南に裸国、黒歯国がある。船で1年かかる」とある。以上が距離に焦点をあてて整理したものである。

2015/04/05(日) 倭奴国とは?
朝方まで降り続いていた雨が小止みになると、数枚の田んぼを隔てた向こうの桃畑が桃色に色づいているのに気づいた。季節は桜の盛りから桃へと主役を交替し始めていた。古代では桃は霊力があると信じられていたが、委奴国=倭奴国はよいとしても、倭の奴国なのか、それとも違うのか?教えてくれと思った。三国志・魏志倭人伝にある「次に斯馬国がある。・・・次に奴国がある。ここは女王の境界のつきる所である」の奴国は邪馬台国大倭王・卑弥呼の宮殿のある都の前の前の国名である。しかし、記載事実の年代が三国志よりも約2百年早いにも関わらず、成立が約2百年後れている後漢書の倭伝では@「倭は韓から東南の方角の大海の中にある。人々は山の多い島々にすんでいる。およそ百余の国々がある。武帝が朝鮮を滅ぼした頃より通訳が漢に通じる倭の諸国は30か国くらいとなった。国々には皆王がいて代々伝えられている。その大倭王は邪馬台国にいる」A「建武中元2年(西暦57年)倭奴国が朝貢してきた。使者は自らを太夫と称している。倭国の極南界である。光武帝は印綬を下賜した」B「安帝の時、永初元年(西暦107年)、倭の国王師升たちは生口(奴隷)160人を献上して謁見を願った」とある。倭の奴国と倭奴国は違うのではないだろうか?魏志倭人伝では21か国を次々と紹介した中の一つである「倭の奴国」は奴国に間違いはない。だが、後漢書に記されている倭奴国は他に国名の記載はなく、邪馬台国のことを指しているような気がするのだが。

2015/04/04(土) かんのわのなの国王?
それでは光武帝から下賜された金印・「漢委奴国王」はどう読めばいいのか?伊都国なのか?それとも学校で教えられたとおりの奴国なのか?「委」とは?中国上古音ではワ行の「ゐ」であり、ア行の「い」ではない。また、この時代の「奴」の読み方は「な」又は「ぬ」と読み、「と」「ど」とは読まなかった。従って、「委」は「倭」の略字であり、「かんのわのなのこくおう」と読む、が奴国説の最大要点の一つである。これに対し、伊都国説は、金印は光武帝が正規に与えたものなので「倭」の代わりに読み方の違う「委・ゐ」を使うはずがない。「ゐ」は「い」と解釈すべきだ。「奴」は上古南方音では「な」と読むが、上古北方漢音では「と」「ど」と読んでいた。従って、「いとこくおう」が正しい読み方だ、と反論している。なお、「後漢書」<倭伝>の「(倭奴国は)倭国の極南界である」について、21か国最後の奴国を那珂郡・2万余戸の奴国と間違えたでは余りにも不自然である、と追い打ちをかける。どちらも正しいように思えるが、しかし、どちらも問題がある。どうにも問題解決が出来なくてスッキリしないしないのだ。どうすればいいのだ?と、つぶやくと、今夜は雨で皆既月食が見られんばってんスッキリとはせんとばいとの声が聞こえてきた。

2015/04/03(金) 倭考にもどって
昨日ツバメがもどってきた。昨年子育てをして巣立った奴に違いない。昨年と同じ巣を使い、わたしを見下ろして「ヂヂ、ヂヂ・・」と鳴いているので間違いない。そこで祝いに向かいの土手の土筆を積んだ。今夜は土筆で祝い酒だ。古代弥生人たちも土筆でお酒をいただいたに違いない。だが、なぜ、わが祖先たちは「倭人」と呼ばれたのだろう?倭という漢字にはどんな意味があるのだろう?漢和辞典には(1)したがう(順う)。従順。(2)みにくい。(3)うねって遠い、とある。そこで、(1)本居宣長は「日本原住民が従順な性質を持っていたので、その意味である倭をあてた」という説を唱えた。(2)藤堂明保・金関丈夫は「原住民を見て背が丸く曲がって低い」という意味の倭をあてた。(3)岸俊夫は「中国からはるか遠い」という意味の倭をあてたという。(4)これらの説に対し、卜部兼方・一条兼良らは「中国人に国の名を問われて我らの国・ワ」と答えたので倭となった」という。前3説は中国人が日本列島人を見て名をつけたという中国語であるのに対し、(4)は国の名前(中国には国・王朝の名があったが当時の日本列島には国の名はなかった。環濠集落程度のクニはあったかもしれない)を聞かれて当時の日本語でワと答えたのに対し、中国語である「倭」をあてたとする説だ。(5)小説家・井沢元彦氏はこれをさらにすすめて「クニがない、あっても部落程度の大きさのこのころの環濠集落の環ではなかったか」とのワ論を唱えておられる。どの説も一理ありそうだが、わたしは井沢氏の説に軍配をあげたい。しかし、漢字をあてるについては中国大国王朝の蛮族蔑視の差別用語を使用したに違いない。なぜなら、倭ではなく、環または輪、そして後々変更することとなる和(中国に対し蔑視用語を変えてくれと頼んで変更したに違いない)でもよかったはずだ。「漢委奴国王」の金印の委と倭の決着はついていないが、とりあえず「倭」の疑問について述べてみました。

2015/04/02(木) 甚兵衛口上書
「漢委奴国王」の金印は江戸時代の天明4(1784)年に筑前志賀島で百姓・甚兵衛が見つけたと昨日ご紹介しました。その甚兵衛が当時の那珂郡役所に届け出た口上書の一部をご紹介しますと「わたしが持っている田地で叶の崎というところの田の境にある中溝の水の通りが悪かったので、先月23日にこの溝の形をなおそうとして溝の縁を切り落としていたところ、小さい石がだんだん出てきてそのうち二人で持つほどの大きさの石が見えた。この石を金梃子で取り除いたところ石の間に光るものがあったので取り上げて水ですすいでみたところ、金の印判のようなものでございました」と述べています。しかし、なぜ?博多湾を囲むように突出した海の中道を遠く回った先の志賀島の叶の崎なのだろう?この志賀島には蒙古塚や首切塚及び蒙古供養塔がある島でもある。金印がこの島に埋められていた理由については多くの説がある。代表的なものは次の5つである。(1)2世紀の倭国大乱で棄てられた。(2)倭国大乱で奴国が没落し、人里離れた処に隠した。(3)奴国王の墓に副葬された。(4)奴国王の宮殿が近くにあった。王宮説。(5)航海安全祈願の施設があった。祭祀遺構説、などである。しかし、なぜ志賀島で?今でも最大の謎とされている。

2015/04/01(水) 金印・漢委奴国王
調べてみるにどうも古代には花見の宴はなかったようだ。神様に捧げるお神酒はあったと思われる。さて、昨日触れたところの「漢委奴国王」の金印のことであるが、わたしは「かんのわのなの国王」と習った記憶がある。ところが「いと」と読むべきだ。伊都国のことだ、という説もある。どちらが正しいのだろう。「金印」は江戸時代の天明4年(1784)に筑前国那珂郡志賀島村(福岡市東区大字志賀島)の百姓・甚兵衛が志賀島の「叶の崎(かなのさき)」で発見したとされる。中国の史書「後漢書」に、後漢の光武帝が中元2年(西暦57年)に倭奴国が朝貢し印綬したとあるので、志賀島で発見された「金印」はこの「印綬」だとされている。印面一辺約2.3cm、質量約109gで国宝に指定され、現在は福岡市博物館に収蔵されているとのこと。行って見たいものだ。だが、この金印には多くの謎があるとされている。まずその第一は偽物説だ。しかし、この説は今から約30年ほど前に覆された。1956年に中国の雲南省で「テン王印」が発見された。それは「漢委奴国王」と同じ蛇紐の金印であった。1981年に江蘇省で発見された「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」は字体や形状が同じであり、同じ工房で作られたと比定された。これによりこの金印は本物だと比定されたのであった。それでは「委」はワと読むのか、イと読むのか?「倭の人偏を省略した」印字なのか?それともそのままの「委」なのか?果たしてどちらが正しいのだろう?


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