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2015/04/05(日)
倭奴国とは?
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朝方まで降り続いていた雨が小止みになると、数枚の田んぼを隔てた向こうの桃畑が桃色に色づいているのに気づいた。季節は桜の盛りから桃へと主役を交替し始めていた。古代では桃は霊力があると信じられていたが、委奴国=倭奴国はよいとしても、倭の奴国なのか、それとも違うのか?教えてくれと思った。三国志・魏志倭人伝にある「次に斯馬国がある。・・・次に奴国がある。ここは女王の境界のつきる所である」の奴国は邪馬台国大倭王・卑弥呼の宮殿のある都の前の前の国名である。しかし、記載事実の年代が三国志よりも約2百年早いにも関わらず、成立が約2百年後れている後漢書の倭伝では@「倭は韓から東南の方角の大海の中にある。人々は山の多い島々にすんでいる。およそ百余の国々がある。武帝が朝鮮を滅ぼした頃より通訳が漢に通じる倭の諸国は30か国くらいとなった。国々には皆王がいて代々伝えられている。その大倭王は邪馬台国にいる」A「建武中元2年(西暦57年)倭奴国が朝貢してきた。使者は自らを太夫と称している。倭国の極南界である。光武帝は印綬を下賜した」B「安帝の時、永初元年(西暦107年)、倭の国王師升たちは生口(奴隷)160人を献上して謁見を願った」とある。倭の奴国と倭奴国は違うのではないだろうか?魏志倭人伝では21か国を次々と紹介した中の一つである「倭の奴国」は奴国に間違いはない。だが、後漢書に記されている倭奴国は他に国名の記載はなく、邪馬台国のことを指しているような気がするのだが。
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