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2015/04/03(金)
倭考にもどって
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昨日ツバメがもどってきた。昨年子育てをして巣立った奴に違いない。昨年と同じ巣を使い、わたしを見下ろして「ヂヂ、ヂヂ・・」と鳴いているので間違いない。そこで祝いに向かいの土手の土筆を積んだ。今夜は土筆で祝い酒だ。古代弥生人たちも土筆でお酒をいただいたに違いない。だが、なぜ、わが祖先たちは「倭人」と呼ばれたのだろう?倭という漢字にはどんな意味があるのだろう?漢和辞典には(1)したがう(順う)。従順。(2)みにくい。(3)うねって遠い、とある。そこで、(1)本居宣長は「日本原住民が従順な性質を持っていたので、その意味である倭をあてた」という説を唱えた。(2)藤堂明保・金関丈夫は「原住民を見て背が丸く曲がって低い」という意味の倭をあてた。(3)岸俊夫は「中国からはるか遠い」という意味の倭をあてたという。(4)これらの説に対し、卜部兼方・一条兼良らは「中国人に国の名を問われて我らの国・ワ」と答えたので倭となった」という。前3説は中国人が日本列島人を見て名をつけたという中国語であるのに対し、(4)は国の名前(中国には国・王朝の名があったが当時の日本列島には国の名はなかった。環濠集落程度のクニはあったかもしれない)を聞かれて当時の日本語でワと答えたのに対し、中国語である「倭」をあてたとする説だ。(5)小説家・井沢元彦氏はこれをさらにすすめて「クニがない、あっても部落程度の大きさのこのころの環濠集落の環ではなかったか」とのワ論を唱えておられる。どの説も一理ありそうだが、わたしは井沢氏の説に軍配をあげたい。しかし、漢字をあてるについては中国大国王朝の蛮族蔑視の差別用語を使用したに違いない。なぜなら、倭ではなく、環または輪、そして後々変更することとなる和(中国に対し蔑視用語を変えてくれと頼んで変更したに違いない)でもよかったはずだ。「漢委奴国王」の金印の委と倭の決着はついていないが、とりあえず「倭」の疑問について述べてみました。
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