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2015/04/29(水)
国産み神話から
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古事記にはわが国の国産み物語が記されています。中国向けに書かれたという日本書紀は天地創造を陰陽論(おんようろん)に基づいて書かれていますが、国内向けの古事記には陰陽論の表現は序にしかなく、宇宙空間がどのように創られたかの記載はなく、天地が出来た時に神々が現れたと記されています。陰陽論とは混沌から陰と陽が分かれて天と地になったとするものです。神が天地を創造したと記す旧約聖書とは世界観がまるで違います。唯一絶対神信仰とは違う八百万の神々を祈るというこの世界観の違いは今現在もわれわれ日本人の心(否、脳かな)の中に坐しています。つい最近の出来事としても新デザインの神棚を取り付け毎日礼拝する若い人たちが増えています。さて、伊耶那岐神(いざなぎのかみ)と伊耶那美神(いざなみのかみ)が創った島々は、おのごろ島、淡路島、四国、隠岐諸島、筑紫島(九州)、壱岐島(長崎)、津島(長崎対馬)、佐渡島(新潟)、そして最後に畿内(大倭秋津島)を産み、大八島国が出来たと記しています。おのごろ島は未詳とされていますがこの国産みの順序は大和朝廷の経済活動を含む流浪転戦の軌跡ではなかったかとわたしは想像しています。この国産みの軌跡にわたしは大和朝廷が朝鮮から渡来した鉄生産の技術を持った一集団であったのではないかとの思いを寄せているのです。余談ですが、最初の頃の国産みの失敗(ひるこ、淡島誕生)の中に女から声掛けをして性交したから失敗したのだ。次は男から声をかけよう。そうすると国産みが成功したとのくだりから男性優位の社会への転換点が弥生時代であったことが推察されます。さて、この国産みの順序からすると、日向国高千穂への天孫降臨は当時覇権を握っていた政治、経済、文化の中心地である九州への定着が主眼であったと思われます。では、筑紫国の中での中心地はどこだったのでしょうか?
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