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2015/04/23(木)
海の神様との関係は?
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邪馬台国は出雲を経て畿内へ至ったという日本海ルート説は間違いだ。「水行20日及び水行10日、陸行1月」とは瀬戸内海ルートだとの畿内説については後ほどどこかで触れたいと思います。その理由はわたしがまだ西暦57年にとどまったままなのでなんとかここから脱出したいとまだもがいているからです。さあ、元気をだしてがんばってみよう。中国正史・隋書には「後漢の光武帝の時(西暦57年)に、朝貢してきた。使いは自ら太夫を名乗っている。また、同じく後漢の安帝の時(西暦107年)、使いが来て朝貢した。この国は倭奴国である」とある。光武帝の時、これが「漢委奴国王」の金印を賜ったことである。なお、中国の正史・後漢書には次の記述がある。「中国後漢の安定の時、永初元年(西暦107年)に、倭の国王師匠達は奴隷160人を献上して、謁見を願った」と。倭奴国は50年後の107年にも存在していたことになるが、倭奴国が魏志倭人伝の卑弥呼の時代の奴国と同一国かどうかは不明である。倭国のことを「倭奴国」と呼んだとも考えられる。こちらの方がわたしは正しいと思う。それではなぜ?筑前志賀島なのか?それは、古事記に出てくる山幸彦と海幸彦の物語の海幸彦と関係があるのではないだろうか?
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