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2015/04/02(木)
甚兵衛口上書
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「漢委奴国王」の金印は江戸時代の天明4(1784)年に筑前志賀島で百姓・甚兵衛が見つけたと昨日ご紹介しました。その甚兵衛が当時の那珂郡役所に届け出た口上書の一部をご紹介しますと「わたしが持っている田地で叶の崎というところの田の境にある中溝の水の通りが悪かったので、先月23日にこの溝の形をなおそうとして溝の縁を切り落としていたところ、小さい石がだんだん出てきてそのうち二人で持つほどの大きさの石が見えた。この石を金梃子で取り除いたところ石の間に光るものがあったので取り上げて水ですすいでみたところ、金の印判のようなものでございました」と述べています。しかし、なぜ?博多湾を囲むように突出した海の中道を遠く回った先の志賀島の叶の崎なのだろう?この志賀島には蒙古塚や首切塚及び蒙古供養塔がある島でもある。金印がこの島に埋められていた理由については多くの説がある。代表的なものは次の5つである。(1)2世紀の倭国大乱で棄てられた。(2)倭国大乱で奴国が没落し、人里離れた処に隠した。(3)奴国王の墓に副葬された。(4)奴国王の宮殿が近くにあった。王宮説。(5)航海安全祈願の施設があった。祭祀遺構説、などである。しかし、なぜ志賀島で?今でも最大の謎とされている。
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