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2015/04/18(土)
邪馬台国はやっぱり九州!?
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しかし、4月6日をもう一度ご覧いただくとありがたいのですが、必要最低限の部分だけ再掲しますと「東南に奴国がある。距離は百里である。南に投馬国がある。海上を20日かかる。南に邪馬台国がある。女王の都する所である。次に・・・21か国記載・・・。次に奴国がある。ここは女王の境界の尽きる所である。これらの国々の南に女王の勢力に入らない狗奴国がある。帯方郡より女王国までの距離は1万2千余里である」とあります。この紀行録の「南に投馬国がある。・・・。南に邪馬台国がある。・・・」の南とはどこか。つまり、出発の起点はどこか、ということが百家争鳴の起源となっているのです。奴国、あるいは北九州のどこかならば、南に海上20日は太平洋の中となってしまいます。そこで魏志倭人伝の作者が方角を間違えたためだと言う方が多いのです。そこで日本海ルート説派は出雲を経て丹波・丹後から陸行で奈良へ、瀬戸内海ルート説派は大阪・河内から熊野を経て奈良へ(神武東征のルート)との説を唱えておられます。ですが、わたしは朝日と夕日を見ながらの旅行者が方角を間違えることはなかっただろうと思っています。また作者が方角の間違いを犯してはいないと思われます。とすると、南はどこから見て南なのか?わたしは投馬国も、邪馬台国も帯方郡から見て南ではなかったのではないかと思います。帯方郡から投馬国は海上20日、帯方郡から邪馬台国は海上10日、陸行1月かかるということだと思うのですが、近年九州説派が少なくなった現状の中での九州説は言いにくい環境にあるのですが、今現在は九州説に傾いています。女王国は帯方郡から1万2千余里という距離記載も無視できないでしょう。
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