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2015/03/28(土)
つくしが顔をだしている
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わが家の前の日近川の土手につくしが顔を覗けている。もうすっかり春本番だ。筑紫の菜畑遺跡はもう少し早く春本番を迎えたことだろう。今頃は樫の木で作った鍬や鋤で田起こしをしていたに違いない。大変な重労働だったに違いない。だが、縄文時代ほどには飢えに苦しまなくてもよくなった。祖先神に感謝の祈りを捧げたに違いない。そして田起こし労働の間に、あるいは帰り道に食事の采につくしや野蒜を採取したことだろう。この菜畑遺跡は縄文時代晩期後半の時代には谷底平野に湿原が広がっている状況で、背後の丘陵には照葉樹林があったという。ここで最初は陸稲的な状況でイネの栽培が始まっていたという。とすれば、現段階での遺跡年代でいえば、陸稲ならば断然岡山の方が早い。しかし、水稲でいえば菜畑遺跡の方が早いようだ。水田遺跡は18平方メートル余りで小さな4枚の田だという。当時は直播で栽培されていたようだ。弥生時代前期の地層からは大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路、堰、取排水溝、木の杭、矢板を用いた畦畔が発掘されており、日本で初めて水田耕作による稲作農業がおこなわれていたことを実証するものだといわれている。それでは、岡山、吉備地方ではどうだったのだろう?
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