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2015/03/26(木)
水稲耕作は九州から東北へ
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受験生必携の日本史概要によれば「農耕の開始ー稲の伝播経路は不明であるが、中国南部または朝鮮半島南部からはいってきたと思われる。農工具として木製の鍬、鋤、田船、田下駄が使われ、貯蔵庫としての高床式倉庫がつくられた」とある。ウイキぺディアを引くと「紀元前5世紀中ごろに大陸から北部九州へ水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州へと広がった」と記されている。初期の水田は佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡市の板付遺跡その他の遺跡から水田跡や大陸系磨製石器、炭化米等が北部九州地域に集中して発見されている。青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から弥生時代中期の広範囲で整然とした水田区画が1981(昭和56)年に発見されたことから弥生時代前期には東北まで伝播していたと考えられ、水田農耕はかなりの速さで日本列島を縦断している。また、中央高地の松本平や千曲川流域などの高地や青森県のような寒冷地にまで広がるには約200年を要したとされている。その理由の一つは感光性のモミが日照時間の短い処では育たなかったことだと言われている。さて、それでは、いったいどこから誰が水田耕作技術を日本に伝えたのだろう?
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