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2015/03/17(火)
倭考
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わたしが今居る処の田(日近)には吉備津彦尊が温羅を撃退するための注連縄を張っていたのだと土地の古老たちが言う。田の傍の少し小高い藪は古墳だという。だが、誰の古墳かは誰も知らない。この辺りは神社やお寺や地神さまなどがやたら多い。祭事のお世話も持ち回りでするようだ。郷に入らば郷に従えとも言う。参加拒否というわけにもいかないようだ。神道とも呼ぶべき信仰がいまだに根付いているのにも驚かされるが、古代を理解しようと思えば、否定できない現実だ。倭をなぜヤマトと呼ぶのか?日本をなぜヤマトと呼ぶのか。漢字では読めないヤマトとは?謎の4世紀(古墳時代)を含め、鬼ノ城及び日下部城建設に至る古代激動の日本列島人の暮らしはどうであったのか?吉備はずっと昔から吉備であったのか。なぜその伝承をわたしを知らないのだろう。ヤマト朝廷はなぜ温羅を敵視したのか。本当に温羅は悪いことばかりしていたのか。天照大神は卑弥呼なのか?わからないことばかりだ。そこで、すこしばかり考えてみようと思う。
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