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2013/02/23(土)
幸せの尺度
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幸せ度を図る物差しがあるのだろうか。物差しと書いたのは機械はないだろうと思うからである。資本主義社会は幸せ度をGDP(国内総生産の伸び)で図ってきたし、図ろうとする。17Cから始まった西洋型資本主義は今や中国までをもその支配下に置いている。資本は労働力の安い未開の地の富をむさぼってきた。石油や金、魚や野菜などの自然資源は冒険的投資行動によって、労働力は資本投資によってアメリカ大陸を、アジア諸国を、アフリカ大陸を食いつくしてきた。その結果、宇宙以外に冒険的投資は無くなりつつある。この事態を、マスコミや一部学者は「世界は成長なき時代に突入した」と言う。GDPの伸びという幸せの尺度は未開と言われていたアメリカ大陸の、アジア諸国の、アフリカ大陸の大多数の人々の、そして終には欧州諸国の経済的に支配された人々の不幸せと貧困を表す尺度でもあった。このように「成長」という尺度は一握りの人々の富と残りの大多数の人々の貧困を表す尺度であったが、マスコミは「富}の裏返しである「貧困」については語ろうとしなかった。それはむさぼりつくしたおこぼれを中間層と言われる人々に分配したからにほかならない。だが、ギリシャやスペインをはじめとする欧州の、また日本やアジアの、そしてアメリカ合衆国の支配者の搾取は中間層への分配も躊躇し始めた。そこで日本では「消費税大増税」という搾取の手法に手を真っ赤に染めた。こうした状況の中で「自転車で移動し、友人と畑を耕し、人と人の絆を大切にして幸せに生きていこう」という生き方が成長なき社会の中での幸せの尺度だという思想がもてはやされ始めた。わたしはこの生き方は幸せの尺度としては正しいと思う。しかし、これに加えて、@国は強制的に集めた税を国民の働く場所を確保する労働生産性の尺度、A家族が幸せに暮らせる富の分配の平等性の尺度を幸せの物差しとして法律に明記すべきだと思う。地球は狭くなった。地球はもはや一つの国家になる以外に矛盾を調整する能力を失ってきたと言わざるをえない。
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