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2011/03/24(木)
芸能人は気苦労が多いね
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幾ら募金したかで「これっぽっちかよ!」とランク付けされ、歌を唄えば「歌だけかよ!」と嘲笑われ、被災地に行けば「売名かよ!」と罵られ、何処にも名前が出て来なければ「何もしないのかよ!」と叩かれる(カギカッコ内はさまぁ〜ず三村で脳内再生願います※ちなみに三村さんはこんなこと言ってませんからね)
みんな、自分が出来ることをやればいいんだよ。一般人だろうが芸能人だろうが、今の自分に出来ることをやればいい。というか出来ること以上の事は出来ないんだから、地位や人脈があるなら利用すればいいし、むしろその地位や人脈はこんな時だからこそ積極的に使うべきじゃん。人助けに使わずいつ使う気なんだと。権力がある人もそう。
歌しかないなら唄えばいい、金しかない奴は金を出す、機動力もあって自分の面倒は自分で見れるなら現地行けばいい。自分の価値は自分で決めていい。
日本には、善行は黙して成すのが美徳だという意識が根強いから(無言実行は素晴らしい事だけれども)、大々的に声高に叫ぶ人達を心の何処かで冷めて見ちゃう人が多いんだな。確かに、確かにね、新興宗教の類いが団体で今めっさ東北入りしてんのね、「慰めたい」とか涙浮かべて信者獲得に回ってんの見ると正直あいつら全員氏にさらせとも思うんだけどね、でも殆どの善意は純粋な善意なんだよ、何とかしなくちゃとみんな一生懸命考えて行動を起こしてる。 著名人のこういった行動を「偽善だ」と指を差す人がいるけど、違うよ、本物の偽善ってのはそんなことじゃいよ、偽なる善とは他人の痛み弱味に共感するフリをしながら自分達の利益の為に唆したり陥れたりする卑劣な行為の事だ、もっとも軽蔑に値する行為なんだよ。
ちょっと脱線するけど。
昔、あるタレントさんが児童養護施設を訪問してたのね。 そこは重度の知能発達障害を抱えた子供達が沢山いて、その中の1人の女の子がタレントに向かって駆け寄った。 そのタレントさんは、顔も服もヨダレでベタベタのその子を何の躊躇いもなく抱き上げて、「こんにちは〜」と笑ったの。 顔やら髪やら身体やら、何処を触られても嫌な顔ひとつせず、避けたり背けたりせず、その子の目を見て優しく笑いながら話をしていたの。
私は学生時代ずっとボランティア活動をしていて、児童養護施設やら痴呆の老人が暮らす福祉施設を回っていたから知っているんだけれど、ボランティアをやっている仲間の中にでさえ、顔や髪や身体を触られるのを嫌がる人はいる。ボランティアをしたいけど「汚い手」で触られるのは嫌だと、また、ご飯を溢したりヨダレでベタベタの「他人の汚い顔」を「自分の綺麗な手」で触るのは嫌だと、「素手は無理」だという人が、沢山います。 これは別にその「無理」って言ってる人を責めてるわけじゃなくてね、その人も奉仕活動してるくらいだから別に露骨な嫌悪で言ってるわけじゃなくてね、ニュアンスが難しいところなんだけど。 例えば吐瀉物や糞尿等を片付けたりする際は保菌者かどうか解らないし衛生面からも手袋するのは絶対なんだけど、それ以外の、ボランティアがやれる範囲での食事の簡単な介助(咀嚼や燕下が困難な人は資格者がやります)とか、手や口を濡れティッシュで拭いてあげるとか、そういう接触自体に抵抗を感じてしまうんだね。でも車椅子押したり、子供達と楽しく遊んだりするのは平気なんだよ。 普通と言えば普通の反応なのかも知れないけれど。
だからこそ、そのタレントさんが子供を抱き上げた時、「ああこの人は売名とか偽善とか言われるだろうけど、多分そんなの気にしない人だろうな。いいぞもっとやれ」と思って、そのタレントさんの事を好きになりました。 TVクルー引き連れて施設訪問、確かに番組の企画ではあるけれど、いくらカメラが回っていようと「無理な人は無理」、その無理な人が全員冷酷かって言うとそれも違うでしょ、性格が優しいとか優しくないとかでもないんです。
ボランティアを、「やらない善よりやる偽善」という言葉を使って表現する人は好きではありません。 あ、いや、他人がどう使おうと私には関係ないし興味もないんですがw、少なくとも前述したように、私にとっての「偽善」の定義にボランティアは含まれていません。 無償の奉仕に善も偽善もないからです、揶揄する他人が思う「其処」には、既にいないような気がします。
芸能人やスポーツ選手の皆さんも、自分に出来ることを好きなようにやったらいいと思います。 私はそれを「偽善」とは呼びません、応援しています。
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