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2005/03/08(火)
憲法改定
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最近またぞろ憲法改正論議がかまびすしい。 自民党の新憲法起草委員会小委があれこれと発表している。 憲法の改定には、国会議員の3分の2以上の賛成が必要なのだが、現状でも民主党議員の一定数が賛成に回れば改定は可能だ。
元々、改正改正と叫ぶ連中は「戦争放棄」を謳った第9条を問題にしていた。つまり自衛隊の交戦や派遣に関わる問題を論議抜きで推し進めたい、という趣旨だ。
ところが、「どうせ変えるならついでに」とばかりにとんでもないことを言い出した。
まあ、政教分離の緩和などは予想の範囲ではあった。首相の靖国神社参拝を公人として認め、玉ぐし料を公費で面倒みようというものである。 それに宗教政党である公明党の受けも良いだろう。
ところがこれはどうだ? 先の小委がまとめた憲法前文の参考例文だ。
「国民は基本的人権を常に公共の利益のために行使する責任を負う」
基本的人権の使い方を定めるって、どういうことでしょうか。 この場合「公共の利益」というのは多数者の利益ということである。 したがって、公共の利益を主張すること自体は正しい主張だ。 そのために基本的人権が常に奉仕させられるなどという考えが、堂々と政権政党から出されたことに驚きを禁じえない。
これはまさに独裁政権の始まりではないのか!
今だって国民に等しく基本的人権が守られているとは言い難い。それほど脆いものだからこそ基本的人権は何よりも先に守られなければならないと憲法で高らかに謳っているのであろう。
それを「公共の利益=多数者の考え=政権政党の主張」のために「行使する責任を負う=奉仕のために犠牲にせよ」とは、民主主義を捨てて独裁国家の道を歩まんとしていることに他ならない。
私はこのような国の国民ではありたくないし、また自分の子供の将来を考えたとき、親の責任として断固反対を貫く決意である。
そして皆さん、このようなとんでもない主張を恥ずかしげもなく言ってのける人たちを支持していていいんですか?
参考までに現行の日本国憲法前文を掲載する。 崇高な理想を掲げてこそ憲法前文である。この憲法前文のどこに改正の必要があるのか?
◇◆日本国憲法 前文◆◇
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。 これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令および詔勅を排除する。 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと務めている 国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。 われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する ことを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげて この崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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