|
2004/06/05(土)
受け入れる心…すなわち
|
|
|
今日は、I氏より写し鏡についてお話を頂いたので、ここでお伝えさせて頂きたい。
私はこの前ある発見をした。
「愛」という字はよくよく観察してみると、「受」の中に「心」という字が入っている。 つまり愛とは受け入れる心という意味じゃないかと、勝手に意味づけてしまった。
でもあながちはったりではないよう。
例えば私がある人のことを冷たいな、と思う。 でもある人はクールでかっこいいと思うかもしれない。 ある人は暖かい人だと思うかもしれない。 ある人はなにも思わないかもしれない。 捉え方は微妙に人それぞれ違う。
要は自分のなかにある心象がでるわけであり、その人を見ているようだが、実は自分のなかにあるものを見ているに過ぎない。
例えば今ある悲惨なニュースを見て、その加害者をひどいやつだ言う人。 親の教育が…と言う人。 今の世情が…という人。 食べ物が…と言う人。 テレビの影響が…という人。 本当に様々である。
つまり、その人が日頃問題意識を抱いているところ、心にとどめているところが反応したわけだ。
これは面白いと思う。
例えば自分が嫌だなぁと思う人が目の前に現れる、ということも自分のなかの心象を見ているということが言えるだろう。
見させられていると言ってもいいかもしれない。
では、どうしたらいいか。
あ、私が引き起こしているんだ。 「自分」なんだ。 と認識すれば、 つまりそのことを「受け入れる」と…
ひとつになるから現象が変わる。
この受け入れる心が「愛」なんだ、と妙に納得してしまいました。
二つに分かれるから戦いが起きる。 相手を受け入れること、つまりひとつになることが究極なのではないでしょうか。
|
|
|