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2004/06/15(火)
有ることを知るには
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学生時代卒業前の思い出として、屋久島に鈍行で行きキャンプをしながら島を回ったことがある。
鈍行だから当然一日で着くはずもなく、駅の近くで寝泊まりをしながらだ。 私はこの時とばかりに新品の少しいい靴を履いていったが、寝ている時に誰かに持ってかれた。 こんなときあまりいい靴は履いていかないことだと思った。
これから海峡を渡るという時、あれが桜島だよと、指差された先に見えた風景は、何とも言えず雄大に見えた。
屋久島に着き、キャンプをしながら転々とし、雨のなか屋久杉を見に行ったりした。
すべてが初めての経験だった。
家に帰ると気づくわけだ。
屋根がある! 雨が降っても雨が入ってこない! 布団で寝れる!
今までが当たり前だったことがすべて新鮮で、有ることに驚きと感動の連続だった。
そう、有ることが当たり前で、そのなかにどっぷり浸っていたから、有ることにさえ気づいていなかった。
これは大きな発見だった。無くなって初めて有ったことを知る。その存在の有り難さを知った。
雨が降れば、道理からいえばそのまま雨に打たれる。 だが、屋根というものがあるから雨をしのげるわけだ。
私たちはやもすると、健康であることを忘れることがある。 でも、病気になって動けなくなって初めて“健康”というものを知る。
危険があるから安全を知る。
戦いがあるから、平和を知る。
裏があるから表がある。
すべて、相反するものの存在により有ることを知らされる。
悪者がいなければ、正義のヒーローなんて出てこない、正義という言葉さえ出てこないかもしれない。
つまり悪がなくなると正がなくなる。 ということは、正がなくなると悪がなくなる。
つまり、なにもない。
すべては相反するものによって成り立っているのかしらん。
そう考えると、目の前の一見不幸と見える出来事も、幸せを知る大事な大事なレッスンなのかもしれないですね。
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