えりこの日記
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2004/05/30(日) 予知夢
私はたまに予知夢を見る。

今回の火事事件が起こる当日か・・、
私は、見たこともない立ち並ぶ家から誰かと出て、
ふと、焦げくさい臭いを感じ振り返り、非常に気になった夢を見ていた。

そして、実はその前日まで息が苦しくて苦しくてどうしようもなかった。
体がだるく、数日間朝の寝起きのときが、息が苦しくて目覚めるのだ。

きっと私は自律神経がおかしい病気にかかっているんや、と密かに落ち込んでいたのだ。呼吸法もためしたがすぐ苦しくなったから・・・

実は今は呼吸に関しては問題はない。

なんだか不思議。

結びつけるのもどうかと思うけど・・・

やっぱり身に起こることや夢から察すると、
人は単体では決して生きていない。

どこかでつながっている。

時空間超えて

だからもう少し敏感に自分の感じるものをひろって、
何かを予兆するものとして意味想像することを、試みようと思う。

2004/05/26(水) インスパイア
私は本を読むのが好きだ。

知識を詰め込んでいるわけでもなく、情報をおっかけているわけでもないような気がする。

同じものを読んだりする。

なんでかと考えてみたときに、

例えば「本」という媒体を通して、ことばの表面上からだけではない、書き手から伝わってくるものがあり、
そこの熱さに触れるから、自分のなかの眠っていたものがインスパイアされたり、新たなアイデアが湧いてきたりする。

つまり、人との話でも、講演でも、本でも一緒で、外部からの働き掛けによって内部が刺激され、新たなものがインスピレーションとして生まれ、
マンネリ化していた自分のサイクルを変えることができる。

だから、自分とは異質なものに触れることは大事だと思う。

テレビなどの映像媒体にしても、ただ漠然として観るのではなくて、
違った見方、感じ方をしてみると面白い。背景や伝えようとしているものを想像してみると面白い。

この人は何を言おうとしているのか、何を伝えようとしているのか…

そうすると、
ほんのちょっとした行間、間、表情、ことばから、意外なことなどが読み取れる。

そうすると人と話ししていても、その人が持っている空気で伝わってくるものがある。

私はよく不思議で何を考えてるかわからない、と言われることがある。
実際、実は自分でも、自分が何を考えているかわかってないのだ!
だからあまり気にしないほうがいい。それか、時間があまったとき心の広い方は、何をしたいんですか?…等こまかにコーチングして頂けたら、何を考えているかわかるかもしれません。(そんな奇特なかたはいらっしゃらない…自分でします(..)ゞ)

ということで、
(何が、ということでかわかりませんが)本を読んだり講演を聴く、もしくは人と話しをしたりすることは、自分のなかのインスパイアなのでした。

2004/05/23(日) 盲導犬の一生
本屋である一冊の本が私を呼び止める。
その本の名はクィール・・・
ご存知だろうか。盲導犬で、映画にも取り上げられたあの、一匹のラブラドール。

私はその本を手にして一気に最後まで読みきってしまった。そして最後には感動して涙があふれでていた。本屋からしては迷惑な話だろうが、鼻水で本にしるしをつけなかっただけよかった。 

写真に写るクィールはなんともかわいい。
そのいたいけな盲導犬の一生は、私が以前飼っていた愛犬と重なるところがあり、私の心に響いてくる。

盲導犬の世界はやはり厳しいようだ。
なかなか育たないということで・・・

そのなかで生後、クィールはどうやって盲導犬としての道を歩んできたのだろうか。

業界のなかでも魔術師といわれるほどの腕を持つ訓練士が言う。
「クィールは、飛びぬけた特徴や能力があるわけでもなく、ごく平均的な犬だった。
だが、きらっと光る素直さを持ち合わせていたのだ。」と。

彼は仲間の中でも、ワンテンポ行動が遅く、マイペースで、周囲にあまり影響されない犬だった。若いのにオッサンみたいな犬だったという。
それでも、訓練士のなかでは、扱いやすい犬だった。彼は主人と決めた人にはとことん従順だった。

訓練を受けても盲導犬として働けるものが少ない中、クィールは盲導犬の資格を得て現場へと出て行く。
全盲の方をお連れするだけでなく、人生のパートナーとなって心の支えとなるクィール。

クィールは盲導犬としての役目を終えると、生後一年間育ったパピーウォーカーである家族の元へ帰り、その老後を送る。最期はその家族である老夫婦のひざの上で一生を終える。

よくやったね。クィール。そう思えた。

私の家で飼っていた犬も、ラブラドール似の茶色い犬だった。

彼も、最期はタオルケットの上で寝たきりになり、下の世話を家族みんなでしていた。
あんなに元気だった犬がこんなになるなんて・・・

彼が子供のころ、新しい小屋に怖がって入らないからということで、
私はその小屋に自らが入って彼を安心させたりした。
(親はびっくりしていた。犬小屋から顔を出していたのが犬ではなく私だったから・・・)
崖みたいなところも怖がったので、私が率先して降りていったら、とことこと怯えながらも後から降りてきた。(私は当時、この子は子育の天才かもといわれた)
そんな思い出がよみがえってくるものだ。

ひとの役にたった一匹の犬が、今度は人の手によって大事に、最期を迎える。

クィール、そして・・・、さよなら。またね。

2004/05/22(土) 根拠のない自信
スガシカオというミュージシャンがいる。

私は彼の音楽が好きだ。

荒涼とした雰囲気を漂わせながら、非常にシンプルな真実を突きつけ、聴いている者をどきっとさせる。

その彼が、今日テレビでインタビューを受けていた。
彼がデビューするまでの話や音楽に対する思いを語っていた。

彼は世にでる前から、音楽のCDやレコードは誰よりも持っていたし、
誰よりも聴いていたと言う。
そして誰かに言われるまでもなく、オレは「天才」だと、根拠のない自信が常にあったという。

私は、やっぱり…と思った。
その根拠のない自信が、彼を光らせ、彼をのしあげていたのだ。

普段、人は真面目さゆえか、ちょっとした失敗や、挫折で自信をなくしたり、経験値や憶測から自分を計ろうとする。

いやいや、
何が起ころうとも、自分は天才だと思っておけば、自分の可能性へチャレンジする意欲が湧いてくるの!

そのうちに能力への扉が次々と拓かれていくのだ。

『やわらかな遺伝子』という本がある。詳しくは読んだことはないが、遺伝子学的にいろいろなことが解明されてきているようだ。
要は、親、育ってきた環境に関係ない、もうひとりのまっさらな私がいる、てことかな。

だから私は〇〇だからできないかも…ていうことは、考えても無駄!ムダムダ……!てことだ。

改めて気付いた。根拠がなくても自信を持っていい、てことが。

でも、ここで取り扱い注意。
天才だと思って、いつかはなんとかなると思って、寝ていてはだめ〜。

スガシカオは、いつもなにか強力な力によって引っ張られてきたという。

そう、なにかの力に…

たとえば、あれよあれよというまに、回りの体勢や状況ができあがり、そこにいつのまにか居た、みたいな。

いわゆる運がいい、ていう状況。

とんとんと、自分以外の力によってのしあげられる、というか。

じゃあ彼は何もその準備ができていなかったかというと、そうではなく、それまで相応の下積みはしていたんですね。

彼にその準備ができていたから、勝手に回りの環境が整って、彼はそこにぐいぐいと引っ張られていったというわけ。

それは、彼の意志と自信が引き起こした、能力の練磨によってその度、達成された内面の結晶のようなものが、外の環境を引き合わせたというか、外に彼そのものが創りだされた!

そして、懸命に創りだした作品さえ、少しでも納得がいかないとか、なにか違うと感じ れば、即消す。

その実直さというか、潔さにも驚く。

あくまで、自分と真っ向から向き合っているという彼の姿勢が、
どこまでも格好いい。

そして、彼のそんな一面を垣間見て、
私も今日から、自分のことを『天才』と思おう・・・と密かに(って全然密かにじゃないね)決意するのでありました。

2004/05/20(木) 表現力パート2
やっぱり表現力ってやつは!

心のなかで思い描いていることをどうして素直にだせないんだろう。

言葉としてだすとどうしてちっぽけになるのか。

そんなもどかしさを感じます。

言葉自体には大きな力があります。
言葉はないがしろにはしてはいけない。

人の心をそして人生をも大きく揺るがす。

人生でのさまざまな感情や事実を伝えるのも、表現のひとつである言葉。

どんなに辛くても言葉にだしてはいけない言葉もある。

胸が震えたとき、伝えなくてはならない言葉もある。

いろんな言葉にかこまれながら、わたしたちは暮らしている。

今日どんな言葉を投げかけただろう。

優しい言葉?
愛を育む言葉?
素直な言葉?

見返りを求めた言葉ではない、率直な言葉を発することができただろうか。

日々のふりかえりと、朝の決意のためにも、
素直に成功していくための種を毎日蒔こうと思う。

2004/05/19(水) 情熱はどこから来るの。
胸の奥からわきあがる情熱は、

そう、あの時に見た夢や、愛すべき人がくれたパワー。

なにもかけるものがないと空しいもの。

仕事も愛でできていて、友情も愛でできている。

本当に自分を愛することができれば、他人だって愛さずにはいられない。

それはコップから溢れでた水のように、広がっていく。

私が私を愛することができるには、
まず私が本当に望んでいることに直視して、小さなことでもいいから、叶えてあげることじゃないかな。

人の良いところを発見できる人は、自分の良いところもきちんと認めてあげているから…

だから、少しでもこの階段を昇ろうと思う。

2004/05/18(火) 喜びと悲しみ
喜びが
悲しみが

湧いてこないそんなとき

私はなんでここにいるのかわからなくなる。

人にばかり合わせていたら、

自分を見失う。

本当の私はどこへいったのだろう。

いつぞやのあかね色に染まった空を見上げて涙したとき

愛するものに出会って涙したとき

そんなときふと自分がよみがえる。

2004/05/17(月) ふるさとのおかあさん
私は高倉健という俳優さんが好きだ。

彼の芝居に対する真摯な姿をうかがわせるエピソードを聞くたび感動する。
そんな彼が描く絵本に私はとても興味がわき、その本を手にして、彼が感じる世界を感じ取ってみた。

高倉健「南国のペンギン」より
〜ふるさとのおかあさん〜

 おかあさんが死んだとき、
 ぼくは『あ、うん』という映画の撮影中だった。
 葬儀に間に合わず、一週間もおくれて、ふるさとに帰った。
 
 形どおり、お線香をあげて、おがんでいるうちに、おかあさんの骨が見たくなった。
 仏壇の骨箱をあけ、おかあさんの骨を見ていた。
きゅうに、むしょうに、おかあさんと別れたくなくなって、骨をバリバリかじってしまった。
 
 そばにいた妹たちは、
「おにいさん、やめてっ」
と悲鳴をあげた。
 
 たぶん、妹たちはぼくの頭が、おかしくなったと思ったのだろう。

でも、そうではない。
 りくつではなく、
 そのとき、
 おかあさんと、どうしても別れたくないと強く思ったのだ。

 ぼくはからだの弱い少年だった。病気になると、おかあさんはぼくのそばにずっといてくれた。熱であついぼくのひたいに、ぬれた手ぬぐいをあててくれた。
一晩中、なんども、なんども、替えてくれた。背中もさすりつづけてくれた。
 
 ぼくが大人になってからも、ふるさとにいるおかあさんはぼくの身を心配していた。

“もうそんなつらい仕事ばやめて、早くこっちに帰ってきなさい”
 
 おかあさんから、なんどかそんな手紙をもらった。
 
 ま冬の雪山や北極や南極にいくのを、おかあさんには知らせなかった。でも、おかあさんはぼくのでる映画をかならず見ていた。映画のストーリーをみるより、ぼくが危険な目にあっていないかを見ていた。危険を感じると、仕事をやめろとぼくに長い手紙をくれた。

“アカギレが、足にできちょるね。もう寒いところで、撮影はしなさんな。会社の人に頼んでみたらどうね”
 
 おかあさんからそんな手紙をもらったこともある。ぼくの映画のポスターを見て、アカギレに気づいたと書いてあった。
 
 その写真を撮影するとき、ぼくのまわりにはたくさんのひとがいた。メークさんや衣装さんやカメラマン・・・・。ぼくはアカギレをかくしたかった。肌とおなじ色のばんそうこうをはった。
だれも、アカギレに気づかなかった。
でも、ポスターを見ただけなのに、おかあさんにはわかってしまった。
 
 手紙を読みおわったぼくは、おかあさんの手のあたたかさを思いだした。熱があるかどうか、よくぼくのひたいに手をあててくれていた。その手のあたたかさだ。
 
 きゅうにおかあさんに会いたくなって、ふるさとに帰った。それなのに、顔をあわせると口げんかがはじまった。いつまでもぼくを子ども扱いして、こまごまと注意する。それがうるさくて、つい、いいかえしてしまった。ほんとうは、

「ありがとう」
 
 といいたかったのに・・・。
 それからも、会うたびによく口げんかした。
 もう、あんな口調でぼくに話しかけてくれるひとはもういない。
 
 人生には深いよろこびがある。
 
 骨になってもなお、別れたくないと思える、愛するひとに出会えるよろこびだ。
 
 人生には深い悲しみもある。

 そんな愛するひととも、いつかかならず別れなければならないことだ。
 
 でも、おかあさんはぼくのなかで、生きつづけている。  
(おわり)

2004/05/16(日) Dreams come true
照りつける太陽のもとでは、額に汗して働き、
夜空に瞬く星のもとでは、少しロマンチックに愛や夢を語り、明日に思いを馳せる。

誰もが理想郷を夢見て、近づこうとする。
でも、自分には無理だという。
本当に無理かな・・・?

明日は少しでも近づけるはず。
だって、今日もあなたは精一杯生きた。

この土地に生まれ、元気いっぱいに育ち、時には涙を流して、地に足つけて踏ん張ってきた。

心を閉ざしてきたときもあり、世界をはすかいに見ていたときもあった。

でもそんな時、あなたをずっと暖かく見てくれていた人がいたよ。
今でもどこかであなたの成長を、成功を心から願っている。

あなたはあなたらしく、ただ真摯に生きていれば、
あなたの理想郷にたどり着くよ。きっと。

だって、あなたは成功するために生きてきた。

使命をちゃんと与かって生まれてきた。
その使命を見つけるのには少し苦労するかもしれない。
でも、あなたの周りの人が気づかせてくれる、助けてくれる。

白いキャンバスにどうかどうか大きな夢を描いてください。
そうすれば、一歩一歩昇っていく階段が、目の前に姿をあらわすはず。

2004/05/15(土) 今・原点
毎日、
体のあかや埃はつくように、人の心にも自然と垢はたまる。
何もしていなければ・・

お風呂で体を洗い流すように、心のあかも洗い流してあげよう。

心に響く言葉を自分に投げかけることでもいい。
大好きな音楽に身も心も任せて踊ってみるのもいい。
自分を変えたい、今より良くなりたい、必死だったあの頃に買った本の一ページを開いてみるのもいい。
一生懸命だったあの頃に書いた数々の言葉たち、そんなものに触れながら、
純粋に何かを求めていた自分の原点が見つかるかも・・

そして、今からでも遅くない、自分という人生のなかの、
また新たな扉を開き、高鳴る胸の鼓動を感じながら飛び出すのだ。

たった一度しかない人生。
恐がらずに堂々と生きたい。
この道は一度しか通らない。この瞬間はもう二度はやってこない。

あの時の笑顔も、瞳の輝きも、忘れられない思い出たちも、過ぎ去ってしまえば過去の産物。
だから、今 微笑みを、今 行動を、今 思いやりを。
水や光を与え続けなければ、美しい花もしぼんでしまうように、
与え続けなければ、今いう時は、形骸化してしまう。

人生というと、大きく漠然としているかもしれない。
一生は一日に集約されている。一日を完結させていき、積み重ねていくことの繰り返し。
それ以外良くなる方法はない。

だから一日の中の「今」という瞬間を感じ取り、大事に育てていきたいと思う。

5月絵日記の続き


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