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2009/05/08(金)
男と女
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故、河合隼雄さんは、心理療法家として現代に生きる悩みを持った人達と会い、共に悩みと正面から向き合い、共にその過程を歩き続けられ、その際に、男性ー女性という軸が、ものごとを考えるための極めて重要なことのひとつとなったそうです。
人間は本人の意思と関係なく男か女に決定づけられます。
男として、女として生まれた時から決定付けられてきた人間が、「異性」に対して効し難い魅力を感じるということは、考えてみると不思議なことです。
同姓の方がはるかに理解しやすく、異性のことなど本当にわかるはずもないと思われるのに、相互の牽引力は測り知れないものがあります。
魅力などというものは理解ということとは関係の無いことと言えるでしょう。
若い恋人達が、「私達は互いに理解し合っている」などと言っても、その「理解」がどれほど底の浅いものかは、すぐにわからされるもの。
ともかく、男女は抗し難い力で惹かれ、そこに愛憎、信頼と裏切り、喜びと悲しみ、人間のすべての感情が流れ、ドラマが展開します。
男女の結合によって子供が生まれるのも現代の生物学研究の最先端の立場からは、その性衝動が「種」にかかわるものであって、個性に由来するものと考えるべきでない、という主張がなされています。
男女の愛は極めて個別的であるのに、そこにはたらく性には「種」の重みがずっしりとかかっているというのです。
男と女に分かれる軸も、「分ける」ということから人間の意識が分化、認識されていくことからできてきたもの。
人間は自由を求めて生きているのに、社会概念を安定させるために、個人的には好むと好まざるに関わらず、男らしさ、女らしさの概念が時代時代に想定され、納得され、それによって社会生活がスムーズに運営されてきたのも事実。
しかし、その狭間で「悩み、苦しむ」男女が昔も今も居たことも事実でしょう。
男ー女の軸の解体と再構成という点から言えば、「とりかえばや」はまことにぴったりの話といえます。
男女の役割が現在よりはるかに固定的に考えられていた時代を舞台として、男女の取替えを主題とした物語が語られるのですから。
つづく
石光寺、芍薬
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