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2009/03/20(金)
平安京の成り立ち
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奈良の平城京から平安京遷都に至る一番の理由として挙げられているのが、奈良仏教勢力が政治に口を挟むのを嫌った桓武天皇が奈良から長岡京へと秘密裏に遷都の準備をしたことからも伺えます。
京都府長岡は大阪とも海とも川で繋がっており、長岡京の造営は難波宮の神殿を移築したため短期間で政治の中心建物が出来上がりました。 物資の調達にも便利で効率が良かったのです。 そして長岡京の中には寺院を一切建てさせなかったそうです。
しかし、街区の造営半ばで片腕として信頼していた藤原種継が暗殺され、その嫌疑が縁戚の早良親王に及び、幽閉し死なせてからは桓武の肉親が次々病に倒れ亡くなると、桓武も子供の平城親王も早良親王の祟りと恐れ嫌い、長岡京は造営途中の10年間で平安京へと遷都されたのです。
平安京の鬼門に当たる方角に比叡山が位置し、風水や祟りを気に病む桓武は奈良仏教と一線を引き比叡山に草堂を持つ最澄を新しい仏教のリーダーとして保護し援助を惜しみませんでした。
早良親王に続き菅原道真も藤原家の讒言で大宰府に流されたのち亡くなり、その後、凶事が続いたことから両者を神として祭り、祟りを静めたそうです。
映画「陰陽師」のストーリーも大げさでなく当時の人々にとっては魔よけや祟り封じは真剣な課題だったようです。
平安京の地は元々地方豪族「秦氏」の土地で提供された地です。
その立地は三方を山で囲まれ風水も良く、地下水は潤沢で水利も良く文化が育まれるには良質の地と言えるもので、豊かな生活と文化が育まれ今日に至っています。
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