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2004/02/20(金)
神とは?
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神とは、死が生のきらめきと内在性を一瞬のうちに示すという意味で、死と同じ効果を人間に与えるのか。 神をつながっている、神と絆を結ぶというのは、当事者にとって、そして信仰の社会的次元において、どんな意味をもつのか。
わかった。
神と一体視する指導者との共苦共感世界の構築による救いの獲得、救われ。 この共感世界では、自己肯定と自己否定による新たな自己の誕生があるが、じっさい、ここである絆で結ばれているという状態の内実とは? 神や霊という超越的存在者を媒介として当事者がつながっているのは、指導者やその他の参与者、そしてその超越的存在者、そしてさらに、世界。 救われとは、単純な現世利益じゃない。というのは、当事者、指導者、その他の参与者、神にとって、その救われの過程それ自体は何か別の目的を遂行するためのものではないから、つまり有用性の外にあるから。 当事者はある目的を遂行し、その目的がまた指導者や他の参与者の世俗の目的を実現するという、有用性の世界のループを更新するわけではない。 ただ、ここで問題があるとすれば、二つだけ。 ひとつは、藤田氏が指摘するように、たたりなどのネガティブな言説は、すぐに脅しになってしまう。 もうひとつは、献金などの奉献が消尽されずに、世俗の現実秩序の有用性の再生産に活用されれば、当該当事者の救われは有用性の世界に巻き込まれてしまうということ。
ここからわかるのは、宗教的共同性としての絆は、それが当事者と指導者、当事者と神とを、ヘーゲル的な労働世界の意味で「媒介」するのだとすれば、それはすでに見返りのない自己放棄にはならず、すぐに手段と目的、生産的生産と生産的消費のサイクルに回収されてしまうことになってしまう。
とすると、絆における非有用的、献身的、犠牲的、自己供犠的媒介性とは何か?非有用的媒介性とは?
いまの自分を認めて受け入れてしまうことと、自分の日々の実践を他者に対する見返りのない贈与とすること。
媒介性を別の言葉で言えば、何かを共有すること。 とすると、非有用的媒介性とは、やはり、何ものも共有しないこと、このことを分かち持つこと=分有、partage
ここまでが否定神学。
次の課題は、この否定神学を、二者の間、あるいは複数項の間に分かち切られたスペースをどうポジティブに語るかということ。
ただ、日本社会における、池上が言うような、甘えや察しを大切にする文化は、以上の否定神学とどう折り合いがつくのか、つかないのか。甘えや察しの文化からすると、否定神学には砂漠や高原の荒涼さがある。屹立した崖に雄雄しく立つ獅子のような気高さは、達人がもつもの。ニーチェ的世界観を民衆の多くはそんなもの持たない。
うーん、東京と関西の差と似てるな。
甘えや察しの文化において、分有は可能か? 複数項間のスペースにあるもの? これって、最終的には、いかなる他者をも許すということか? 否定神学はきわめて男性的。 慈しみ癒すマリア!
@@@@@@@@@ 論文、半分おわった。
*************** 朝、有機全粒粉パンチョコレートクリーム、わかめの味噌汁、チーズ 昼、野菜煮込みうまかっしょ(にら、玉葱1個、ピーマン1個、ほうれん草、鶏そぼろ、生卵)、ご飯 夜、うどん(春菊、みら、生しいたけ、えのきだけ、卵、まぐろのミートボール1)、ご飯、おかか、のり 妻からすすめられたもなかは食べなかった。
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