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2003/10/18(土)
痩道の比較人類学的研究ー日韓仏の事例からー
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この夏はいろんなところに行った。そしていろんな人に会った。その中で特に、韓国人とフランス人とのつき合いが多かった。 しょっちゅう会ってる人、久しぶりの人、いろいろだったけど、そのほとんどの人が、「カシオさーん、痩せたね。」と行ってくれた。 カシオ「そうでしょ。三月から頑張っているからね。93だったのが、五月には83になったよ。10キロやせたんだよね。最近ちょっと運動不足と外食が多くて2,3キロリバウンドしていると思うけど、まず最低のときまで戻して、あと10キロやせてダイエット本書こうと思っている。」 韓仏人の方「前はほんとに太りすぎだと思ってて、心配してた。」
ここまでは、両国人とも対応は同じである。
### しかし、その後の対応が韓国とフランスでは全く違っていた。 韓国人は、 「今でちょうどいいから、このままでいいんじゃない。これ以上やせると・・・・年とって痩せてると、ねえ・・・」
これに対して、フランス人は、 「そうね、たしかに痩せたけど、まだまだね。もっと痩せた方がいい。頑張って!」
うーん、この後の対応に、ぼくはいつも困った。両国人に対して。 こういうことだ。 韓国人には、 「ちょっと痩せたことを評価してくれてすごくうれしいけど、まだこれから本当に痩せたいと思っているのに、意志がめげること、言わないでよ。もっときびしく言って!」
フランス人には、 「これまで自分としてはかなりがんばってきたんだから、もうちょっとその努力を評価してよ。あんまりきびしく言われると、やる気なくなっちゃうじゃない!」
もちろん、両国人は、文化人類学的に考えれば、自分達の理想的身体の社会・文化的イメージから、ぼくの痩せ具合を評価して意見を言ってくれたのだ。 でも、それはわかっても、ぼくとしてはまったく反対のことを言われると、戸惑ってしまう。韓国では、そうかもうこれでいいのかなあ、彼女、彼らがそういうんだから、もう無理するのはやめとこうかなあ、と思ってしまう。 ぼく自身の理想的身体イメージは、やっぱ、あとぜい肉を10キロくらい落として、そこに筋肉がついた体だ。筋肉をつけて、体重が少しもどってもまったく問題はない。 あるスポーツジムのインストラクターをやっていた人から聞いた話だけど、ぜい肉を落とさないで、いきなり筋肉をつけると、「霜降り」状態になって、よくないそうだ。 さて、では、日本人の反応はというと、家族は別にして、全体的な印象からいうと、「あ、そうですか」という反応が結果として多かった。「まあ、ぼくにあんまり関心ないのかな。仕方がないないけど、もっといろいろいってくれたらいいのになあ。」と思ってしまう。あるいは、こんなのもある。「ぜんぜん痩せてないじゃん。」これを言われるとすごく不愉快。やっぱ俺にぜんぜん関心ないんだよな。髪型や服装がかわった時、「あれ、ちょっと感じ、かわったね。」と言ってもらいたいのと同じで、じっさいちょっと痩せたら(でも7,8キロやせることがいかにしんどいか、やった人しかわからない)、「ああ、ちょっと痩せたね。どうしたの。」と言ってもらいたいもんだ。 もちろん、そういう風に言ってくれた友達はいた。「いきなりやせたので、病気になったのかと思った。ほんと大丈夫?」この言葉はすごくうれしかった。自分もかくありたいと思う。
******** さて、昨日の朝、あれから、す^ぱ^銭湯に行って、二時間びっちりがんばりました。たまった汚い水を出して、結果はなんと
83.4
やりました!!!!! サウナのあととは言え、ここまで減らせるのがうれしいし、だんだん、最低の82.9にまでまず戻りつつあることがわかる。 ここで、運動、走り込みをすれば完璧だ。 風呂から出た後、回転寿司屋に行って、 まず生ビール、そして、 平あじ、すずき、金目鯛、太刀魚、あなご、ばってら、みる貝、鉄火巻、はまち、かにをいただく。このチョイスが超へるしーですね。
帰宅してすごく疲れたので、『教養主義の終焉』を読みながら昼寝して、夜は、ブリの子供のハマチの子供のイナダかワラサだったか、名前は忘れてしまったが、その刺身とご飯ときゅうりの酢の物、もずく、レタスと里芋とインゲンのサラダポン酢とごまドレッシングを食す。 ベルギーのシメの白ビールと、赤ワインを半分くらい飲んだあと、人生ゲームを途中までやって、子供とともに人生を学んで、10時過ぎ就寝。 7時50分起床。 ご飯、焼き肉、豚と野菜のスープ、キムチ、韓国のりを朝食にいただく。
今日は、こどもと自転車して、公園で遊んで、夕方に家族です^ぱ^銭湯に行く予定。 今日こそ、自己最低記録を更新するぞ。
まあ、要は、ぼくが自分の思う通りに身体をコントロールできるということが大事、「自律」、これですね。これが身体からにじみでていれば、人間としてかっこいいんだと思う。日韓仏のみなさん、観ていて下さい。次にお会いするときまで・・・・・。
(注)いまこれを書いていてしみじみ思うのは、「比較」には当然ある目的があるということだ。
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