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2004/06/01(火)
[アタマノナカミ]004
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「誕生日、及ビまざこんノコト」
本日、31回目の誕生日を迎えました。 昔から思うんだけど、誕生日というのは祝ってもらう日と言うより、自分を産んでくれた母親に感謝すべきなんじゃないかなー。 昔は「誕生日プレゼントはアレが欲しい」とか無理言って、当たり前のように親にプレゼントを買ってもらってた気がするけど、どちらかというと「産んでくれてありがとうございました」と母親に感謝する方が正しいんじゃないかと... (実の父親はいろいろあって尊敬していないので考慮しません)
俺は幼稚園の頃父親の浮気がもとで両親が離婚し、しばらく母一人子一人の母子家庭をやっていました。ちょっとしたら二人めの父親が出来て、父親違いの妹ができて...という感じになったのですが、この母がなんとなくただ者ではないのです。 結婚前はバレリーナをやっておりまして、松竹SKDを退団したのちは日劇で踊っていたらしいのですが、結婚してからはプロボウラーを目指し、更に父の趣味もあってかポケバイや「トライアンフ」というイギリスのバイクを乗り回していました。実際俺も幼稚園は、この母が駆るトライアンフのサイドカーに乗って通園してた訳なのですが... 離婚を心に決めた母は、無理に俺を連れて行くのではなく、俺自身の考えで決めるように言いました。 「お母さんとお父さんは離れて別々に暮らす事にしたの。お父さんと一緒なら今まで通りこの家で、お父さんとおじいちゃんおばあちゃんたちと一緒に暮らす事になるし、今まで通り欲しいものも買ってもらえるとおもうの。お母さんと一緒に来るなら、お母さんと二人っきりで、欲しいものも買ってあげられないと思う。お父さんかお母さん、どっちか選びなさい」 朝のふとんの中で、涙を堪えながら真剣な目で話す母に、今まで感じた事のなかった異様な気迫を感じました。 「じゃあ、お母さんと一緒に行って、お父さんのところに遊びに来る」 子供心には名案だと思ったのですが、 「お母さんと一緒に来たらお父さんとは会えなくなるの。お父さんと一緒にいるなら、お母さんと会えなくなると思うの」 最終的に何が決め手になって母に付いて行く決心をしたのか今となっては正確に思い出せないのですが、いつも明るくて優しかった母が泣いているのを見るのはショックで嫌だったので、俺は母について行く事に決めました。 よく考えれば、既にその頃からちゃんと選択肢を与えられてたんだな、と思います。母は、あえて自分に不利になる要因まで隠さずに持ち出して、その上で「どうするか自分で決めなさい」と言ってくれてたんだなー、と。
東京の家から、母の実の母親(母の両親も実は複雑)が住んでる大阪へ逃れ、そこでしばらく暮らした後に母子家庭生活が始まりました。そこで母は、それまでの華々しい生活から一転、俺を育てるため、男性しか雇わないという工場にまで無理に働きに行ってフォークリフトの操縦が出来るようになったり、有機溶剤を使う危険な仕事までしてくれたのです。 日常生活でもいろいろ教えられました。 もともと泣き虫だった俺が泣かされて帰って来ると、 「誰かにいじめられた時は、その相手をいじめる事しかできないかわいそうな人間だと思いなさい」とか、「挨拶がちゃんとできて字がきれいに書けていつもニコニコしてれば、頭が良くなくてもよく見えるのよ」とか、「悪い事はばれないようにしなさい」とか、なんか危険な香りのするコトをたくさん教わりました(笑) その後再婚して妹が生まれて、もっといろいろあって今に到るのですが、まあ詳細は追々...
俺は母が大好きです(妹も)。 はっきり行って、本質的な意味での「マザコン」だと思います。 でも、電話をするのも月に1-2回だし、母がいないと何も決定できなかったり、何でも母の言いなりなわけではまったくありません。 おそらく同年代の多くの奴らより、母(と妹)とのつながりが深くて、尊敬してて、なんとか幸せになってもらいたいと思ってるんじゃないかな、と感じます。 世間一般で「マザコン」と言われるのは、ただの「母親依存症」だと思うのです。 俺にとって母(と妹)は偉大で、かけがえのない家族です。
本質的な意味での「マザコン(シスコン)」万歳。
お母さん、産んで、育ててくれて、本当にありがとうございます。
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