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2005/02/21(月)
すべてはふたたび新しい(modified)
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きょうのタイトルは、以前、コラムのタイトルにしたものだ。「ふたたび新しい」という逆説的な言い回しが気に入っている。ジツは、ブラジルのソングライターの、モスカ(Moska)というひとの書いた曲です(音はわりとさわやかなギターポップです。原題は‘Tudo Novo de Novo’で、同名のアルバムに収録)。年度末のこの時期にふさわしい内容だと思ったので、またとりあげます(以下に引用する歌詞の原文はポルトガル語で、CDについてきた訳を参考)。
「さあ始めよう 終止符を打って 少なくともひとつの徴ではある 生におけるすべてには終わりがあるということの」
単位の計算を間違ってなければ、おれは今年の4月から社会人になる。大学という制度的な枠組みからはなれ、企業という新しい枠組みのなかで生きることになる。それにともなって、おれは実際的にも比喩的にもおっ?何?ばかりしていた仙台から、別の場所に移ることになる。仙台で出会った多くの人たちと別れることは、想像以上につらいかもしれない。でも、いちど結んだヒモは簡単には解けないと、おれは無邪気に信じている。その結び目には、アロンアルファが流し込んであると、おれは無邪気に信じている。
タイミングというやつは難しいもので、ヒモを結ぼうとしているまさにそのときでも、その機会を奪ってしまうま(cf.たけや)。そうなっては、もはやヒモを物理的に結ぶことはできない。結合を保証しうるのは、もはや「意思」しかない。
そのまま結ばないということを選ぶこともできよう(これもひとつの「意思」だ)。そしてもうひとつ、「結ぼう」という意思を起こすこともできる。どちらの選択をする場合でも、流れに身を委ねることは簡単だ。何も考えなくてもいいのだから。でも、それでは自分自身ではない。自分の自己が過去の自分に常にうしろ指をささないようにするには、少なくともそのように生きたいのならば、おれは主体的に選ばなければならない。自分の揚げ足を取るようなマネには、もう疲れてしまった。
「さあ始めよう 終止符を打って」
自分の力ではどうすることもできない大きな力に反発したいなら、結果的に無力さを思い知ることをわかっていながら、なおも逆らいたいのであれば、ピリオドを打つ必要がある。ピリオドは、誰かに打ってもらうのではない。
「すべてはふたたび新しい すでに墜ちている場所へ身を投げよう すべてはふたたび新しい 登り詰めた場所から飛び込もう」
ただ「新しい」と発言することと、「ふたたび新しい」と発言することは、違う。前者は過去を意図的に忘れていて、自分自身ではない。たんなる気分転換でしかない。後者は、過去を否定しながらも、意図的に忘れるということをしない。それは一種の「覚悟」だ。自分はすでに「墜ちている」ということを忘れないでいること、見たくなくても見ること、これが「覚悟」の内実だと思う。
例えるならば、便秘で宿便がひどいけど、レジのお姉さんは綺麗だしコーラック買うのは恥ずかしいなぁ。でも、きょうはがんばって買うぞ!ということ。いつかは便秘が自然に治るかもしれないけど、今回こそ治してやるぞ!ということ(あくまでも例えです。おれは毎日快便!)。
automobile
追記:前から言おうと思っていたが、今回のように、たまにおれは説教臭い書き方をする。読んでいて鼻につくと思う。しかし、すべてはおれ自身に対して言っているものだ。公の場でウンコ(私事)を垂れ流すのは恐縮だが、すこしでも共感してくれるひとがいれば幸いだと思って書いてます。あ、あと今回のは酔っぱらいながら書いてます、という弁明。
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