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2004/09/20(月)
イライラしているときに読まないでね
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今日は、書くことがなくなったので「辞書のページをて亀頭に開いてイチャモンつけるシリーズA」をやろうと思ったのだが、最初に開いたページに、 びおん【微温】なまぬるいこと。【―的】物事が中途半端な様子。不徹底な様子。 (前掲書、p.1166 ) とあったので(実話)おれのことをいっているように感じて、鬱になった。それで、やっぱりやめることにした。ということで、今日は果てしなくどうでもよい自分の疑問をぶつけてみる。 けっきょく中途半端なのはいつも変わらんのだが。
テーマ:「モダン焼き」におけるモダニズム おれのバイト先には「じゃがいもモダン焼き」というメニューがある。チーズ、マヨネーズ、ニシンなどといっしょにオーブンで焼いた料理だ(けっこううまい。ニシンがいける)。そこから疑問がわいたのだ。いったい、どこがモダンなのだろう。
これを知るためには、まずお好み焼きの一種である「モダン焼き」に手をつけねばなるまい。ネットで調べてみると、公式に「モダン焼き」という名称が使われたのは1972年の大阪でのことだという。比較的新しいことだ。どうやら、お好み焼きと焼きそばをいっしょにすることで、アヴァンギャルドな感じを出したかったようだ。つまり、常識を覆すという行為を通じて、時代の最先端を謳ったと解釈できる(大げさだが)。わがバイト先の「モダン」も、そんな感じを演出しようとしたのだろう。答えは出た。しかし、まだ終わらない。他の可能性も追究する必要がある。筆がノッてきた。エイヤァアアア!
「モダン」という時代区分をひとことで表現することは不可能だ。訳語にしたって、「現代」だったり「近代」だったりする。しかし、その要素としては、メジャーの建築の話でもないが、合理主義や機能主義をあげても間違いではないだろう。この合理主義や機能主義を強引に考慮すれば、「モダン焼き」のもうひとつの可能性がみえる。すなわち、ふたつのものをいっしょにすることで得られる、調理および食べる時間の短縮や省スペース化がそれだ。
しかしながら、この仮説は直ちに否定される。たとえば、うんこが漏れそうだがお好み焼きも焼きそばも食いたいひとりの男(あるいは女)がいる。そいつが「よぉし!モダン焼きならば、すぐ食えるから、うんこはとりあえずガマンだぁ!」と括約筋を意識下におきながら、モダン焼きを食うだろうか?答えは否、である。うんこを優先するだろうし、食った気がしないはずだ。そもそも急いでいるやつは時間のかかるものを食わない。したがって、「モダン焼き」を合理的・機能的なものを志向した食い物だとはいえない。
では、先に「アヴァンギャルドな感じ」といった「モダン」は、どう捉えられるだろうか。強いていえば、価値相対主義的な「ポスト・モダニズム」だといえるだろう。いいかえれば、「何でもあり」的な状況の産物である、ということだ。この状況のなかで、「モダン焼き」は、商品としての新奇さを志向して誕生した。このような、商品間の差異付けは、モノを売るばあいに不可欠な戦略である。これは、消費者の欲望を喚起する資本主義システムの本質だ。資本主義はいうまでもなく、モダンを語る際には不可欠な要素である。したがって、「ポスト・モダニズム」といえど、「モダン」の枠を出ていない。
以上の考察より、「モダン焼き」は非意図的であるにせよ、極めて「モダン」な食い物であることが明らかになった。
だからなんだというのだろう。 つづかない 〈aut◎m◎bile]≡≡3
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