スノーボードコラムセピア
どこかでなくしたあいつのアイツ
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2004/10/27(水) あなたは神を信じますか?
今車の中であなたのことを思いながらこのコラムを書いてます。
佐々木です。今月はジムに行ってません。
さて、教会の掲示板では毎日その日の格言が登場します。今日の格言→「神の計画」
はっ!?神のお導きは計画的だとゆーことでしょうか。自分なりに解釈をしてみましたが…神はどのような計画をされているのか?神が志向する世界はいかなるものなのか?我々はそれに迎合しなくてはならないのか?迎合を拒絶するためにも我々が自らの「世界」を創出しなければならないのではないか?
表現者でありたい。そんな年頃です。
佐ントス

2004/10/26(火) FOREVER YOUNG
普段くそみたいな日常を消化しているとき,ゴイステは恥ずかしくて聴けません.
しかし,いろいろ事情があると,ゴイステが,無防備な僕のハートに染み入ってきちゃって困ります.以下果てしなく素敵な歌詞の抜粋.
「誰も君のことを悲しませたくない.誰も君の涙を見たいなんて思ってない.胸の中にある気持ちを決して恥じることはない.人間なんて,誰だってダメなんだ.」
「愛より,恋より,今すぐ君だけがほしい.」
などなど
嗚呼,どうしようもないバカコラムですね.
100%ノンフィクション,メジャー

2004/10/25(月) それでも灯台は照らす
鬱度30%、だるい度90%、思考停止度98%、欲求不満度イレブンナイン。

前回のコラムをupしたあと、ふと、あのおやじがイワンとしたことは「とんこつのダシがでていない」ということではなかったか!?とか思って、実は勘違いしているのはおれではないのか、とか考え、書き直そうかとも思ったが、あとで誰かに痛烈に批判されるのもまた気持ちよかろうと思ったので、放置した。なにがいいたいかというと、自分の尻に毛が生えているのは知ってます、自覚してますよ、といいたいのである。ついでにいえば、知ってるけどイジってね、オイシイから、ということだ。

さて本題。
世の中には、「意図せざる結果」というものが多々あるようだ。

ボサノヴァを創った男、ジョアン・ジルベルトのレパートリーのなかに、「O Pato(アヒル)」という歌がある。たぶん他のボサノヴァのスタンダードほど有名でもなく、たいして派手な曲でもないのだが、おれはこの歌の詞、メロディ、グルーヴ感がかなりお気に入りだ。詞の内容は次のような感じ。

アヒルが歌いながら歩いていると、マガモがいっしょに歌わせてくれと加わった。2羽で歌っていると、それを聞いていたガチョウがその歌を気に入り、加わることになった。3羽で歌っている所にハクチョウがやってきたので、誘ってカルテットを結成。4羽は湖のほとりでコーラスの練習をする。彼らはたいそう一生懸命なのだが、ハタから聞いているといまいちコンビネーションが悪い。うまくならない。そんな4羽ではあったが、いちどだけ魅せ場があった。それは、4羽そろって水に落っこちたとき。
そのときの4羽の騒いだ声が見事なコーラスに……クエンクエンクエンクエン……。

まあ、歌詞だけではこの歌のかわいらしい感じは伝わらないかもしれんが、なんとも微笑ましい光景である。本人(本鳥?)は必死にもがいているだけなんだが、ハタから見ると意外な結果になっている。これを聴くと、生きていてイヤなことがあっても、「そんなことどうでもいいじゃん!」と思わせてくれる。同時に、もの悲しい気分にもなる。『平家物語』と同じにおいを感じる。

「意図せざる結果」はいいものであることもあるし、当然、よくないものであることもある。すべては「偶然」に支配されているような気もする。「偶然」のもつ恐ろしいまでの力はわかった。そこまでは理解した。

さて、それじゃあ次はどうしようか?
おまえなら、どうする?

automobile

2004/10/23(土) そんなことより少しは寝たい
俺は超が付くほどのめんどくさがーりだ。だからいろんなことの出席率はあまり高くにゃー。どの位かっつとなにかと行事の前に事件、事故、病気になるめんどくさがりだ。
よくある例では風邪。こりゃもはやつっこみよーがない。むしろつっこんでくる奴のがおかしー。
対研究室用に今まで使ったのは、
風邪
そして風が強い
車故障(計5回 実際2回)
俺事故
母親事故
寮生不祥事で後始末
あげくの果てにゃ食中毒
すごい、ありえなー。食中毒てナニー?新聞乗っちゃうよ。むしろその後の詳細説明に四苦ハック。

なんつか、そこまで参加意欲を湧かせない行事がむしろ悪い。つか絶対悪い ちんかす
人類最強の敵、めんどくさい に打ち勝ち、社会にでる日はもうあまり残されてはいない。
取り合えず、今日の晩飯から考えてみようと思うのである。


草井雲光

2004/10/19(火) 求めよ されば与えられん メアドと番号
アレがホシイ.
刺激的なやつがホシイ.
今のぼくのアレは,別にダメになってるわけでもないし,まだまだイケます.今のままで別に不足はないんですけど,もっと刺激的で,乱暴で,エモーショナルな,新しいアレが欲しくなっちゃたんです.どうしようもないんです.ただのワガママなんです.
一般ピープルの方々は,アレのことなんかこれっぽっちも眼中にないことと思います.たとえ僕が,求めるアレを手に入れたからといって,(一部の人を除いて)だれも気にとめないでしょう.
むしろ非難されるかもしれません.「おまえはソレを立派なものだと思っているかもしれない.けどそんな下品なもので喜んでるやつはただのガキだ.阿呆だ.野蛮人だ.」みたいに.
でも,こういう愚かな自己満足の趣味の世界を,全然認めてくれないなんておかしいです.
誰だって少なからず僕のように「たとえバカだって罵られても,やっぱりホシイものはホシイ.」的なものがあるはずです.たぶん.
「そんなもの,全然価値がないじゃないか」みたいに知的ぶってる輩も,実は心の奥の方では「いいなあ.俺も一度はアレをためしてみたいなー」とか思ってたりすると思います.

まあ不況とかって言っても,やっぱり日本って経済的に豊かですから,みんな要らないものまで欲しくなっちゃうんです.一生懸命働いて得たお金を100%有意義に活用してる人間なんていないでしょう.絶対ちょっとは無駄使いしてるんです.ただ,人によってそのお金の使途と金額が多少違うだけなんです.
無駄使いが人間の日々の生活に彩りを添えているんです.「無駄遣い」という言い回しには負のイメージがあるので,「夢堕遣い」にしましょう.いわばムダ遣いは「私的な目標(夢)に向かって,現実というしがらみから解き放たれるカタルシス(堕)への投資」ともいうべき自由資本主義経済の禁断の果実なんです.

メジャー

このページの副題そろそろ変えてほしいです
ぼくの希望は「ゲレンデが融けるほど恋したい」

2004/10/18(月) 愛せない場合は通り過ぎよ!
楽しみにしているひと(そんなやついない)には悪いが、今週の連続モノはとりあえずお休み。気が向いたら書く。おれの普段の生活は9割ぐらい鬱状態なのだが、最近ちらほらと新しい人間との出会いなどがあり、おれの内的生活の比率が低くなっている。おれは内向度が高ければ高いほど、愉快にコラムが書けるのだが、なにかしら外的なものに気を取られているときは、たいして書けない。いまがそのときだ。

だから今回は、ふつうのことを書こう。

さっき、バイトが終わって腹が減っていたので、国技場でラーメンを食ってきたでごわす。ドス!コイ!最近はなんだかとんこつにはまっている。みそや醤油を食う気がイマイチしない。でも、今日はあっさりとしたものが食いたい。でも、とんこつが食いたい。店の名前は忘れたが、あっさり醤油とんこつを食わせる店があった。うす味なんだという。ちょうどいいじゃなーい。
「おっ。おれはちょっとラーメンにはうるさいよ」という感じで、べつにうるさくもないのだが、そんなふうな表情で店に入る。出てくるのを待っていると、近くにいたおやじがなにやら喋りだした。暇なので仲間内で談笑している店員に、彼は話しかけ始めた。

「ちょっと、キミら楽しそうに喋ってるけど、全然ダメ!うすい!こんなのは、とんこつとはいわないヨ。おまえら、ほんとうのとんこつ知ってっか?おれ、食ったんだから。昭和45年の神戸だよ。○○サンが始めたんだ。おれは食ったんだから・・・」
おれは、オモシロイ現場に居合わせた!マンモスうれP!と思った。おれは「イチャモンをつけるおやじ」をみるのが好きなのだ(バイト先でおっさんにイチャモンつけられんのはいやだ)。なにせやつらは(たいてい酔っぱらいということもあり)周りが見えていないのだ。

だって、表に「うす味」って書いてあるじゃん!プッ!それを「うすい!」だって!プー!おまえ、うす味のラーメン屋に、うすいっていったらダメだよ。そりゃ、店員が禿げてたらいってもいいけど、いっちゃダメだよ!だって、おまえそれ、ヘルス行って「なんで本番がねえんだ!」というようなもんだよ!(場合によってはあるらしいけどね。ウフフッ?)

ソープ行け!ソープ!
何度もツッコミを入れたくなったが、めんどくさくなるのはイヤだったので、HotしてGoodガマンした。

そのおやじは、「うすい!」と「昭和45年」と「神戸」と「ポーランド」をそのあと何度か繰り返し、やさしそうに「ゴチソウサマ」といって帰っていった。きっと「いいアドバイスをした」ぐらいに思っているのでごわすな、ドス!コイ!

ちなみに余談だが、おれは「うすい!」を連呼するおやじをみながら、つとむ君(cf.吉田戦車『ぷりぷり県』の主人公)が東京タワーを批判して「赤い!」といっていたのを思い出していた(知らないひとはごめんなさい)。半分くらいはそれで笑っていたのである。

ラーメンはふつうにうまかった。

はやいうちにまた鬱になって復活します。カミングスーン。
アテブレーベ。オブリガード。
(Inspired by ramen-ya-ni-ita-oyaji)

automobile
P.S.自転車班のひとへ。ちかごろやっと『茄子 アンダルシアの夏』のDVDみました。何回か本当に泣きそうになった。でも、あれって競技わかんなきゃ単なる安っぽいサクセスストーリーになっちまうな。やはり、単なるマニアックな映画なのかしらん?

2004/10/12(火) 津軽
「太宰文学を全否定し認めようとしない文学者,大嫌いだという読者も少なくない.太宰に関しては全否定か全肯定しか許されない.」(『斜陽』解説文より抜粋)

ある物語が自分に訴えかけてくるかどうか,というのは人それぞれだ.

小説を読んだときに,その作品と読者の間に生まれる「共感とか感動というのは,読者のなかに潜在している欲求が刺激されるためだ」,という仮説を立ててみる.

僕はたぶん太宰肯定派だ.とくに『人間失格』はすごい小説だと思う.

太宰文学に描かれている人物は暗い.そして破滅する.しかも独白体の私小説が多い.
おそらく,太宰文学が嫌いだという人は,そういう人間の暗さ,退廃性,赤裸々な告白,といったものの価値を認めない人だろう.マイナスの要素を嫌悪し自分から遠ざけ,自分より優れた自分のプラスになるもの を指向する人.実際世の中にはこういう陽性の人が多いだろう.

僕は,『人間失格』はためになるとかではなく,純粋に話として面白いと思う.「自分にはできないことを主人公がやってしまう」感覚が痛快だ.
その「自分にはできないこと」というのは,実は読者が潜在的に欲求していることなのではないか.その潜在的欲求は,作品に触れることがなければ一生自覚されず,深層心理の奥底に眠ったままであっただろう.しかし物語を追体験することで,その潜在的欲求が刺激され,「心に深く響いた感じ」として,「感動した」という認識に至るのではないか.
『人間失格』に描かれているのは,非常識だったり,非道徳的だったり,普段の生活ではありえない,恥ずかしいようなことが多い.そのため,なおさら読者にとっては新鮮で,自分の未知の部分に踏み込んでいくような感覚を与えるといえるのではないか.

こういうきわどい作品が文学的に評価され,商業的に成功するということは珍しいように感じる.それだけ世の中には,暗いものを好む物好きが結構いる,ということだろうか.



おまけ: 先日『しあわせな孤独』というデンマーク映画を観ました.レンタルで有ると思うので暇なときに観てみるといいと思います.ベスト恋愛映画ですが,恋人と観るより,一人で観ることをお勧めします.もし観たら感想を教えて下さい

メジャー

2004/10/11(月) シレンシオ・ド・エクストリモ・オリエント@
先週はイントロダクションで、今週から本編ということにしときます。

前回までのうらすじ;
ロングロングアゴー。
ジャポォンの一般的な家庭に生まれた「おれ」は、おやじの「レスラーになってほしいアウラ」をかわすために旅に出た。その旅の途中で卒業論文を書くことになり、デルポイ神殿(ダンジョンになっている)にいるタントウキョウカンにハンコをもらいにいった。そこで「おめほどのバカァアンはいね!(訳;君ほどのバカァアンはいない)」という神託を受けた。タントウキョウカンの激しい猛攻のなかで、武器を持たない「おれ」は「沈黙」を武器として戦う術を覚え、ほっとひと安心していたのだが...



秋という季節は、闇をこれまでより早く連れてくる。外は、もう夜だ。
とりあえずハンコをもらうことはできたものの、次に何をやったらいいか見当もつかず、おれは途方に暮れていた。
いつだってそうだ。おれの行動は、いつも何かに対する反作用にすぎなかったし、今でもそうだ。すべてが受け身。そもそも、おやじとケンカして家を飛び出したのもそうだ。ほかに確固たる目標があったわけではないのに。ことの発端は、おれがレスラーになりたくないあまり、おやじのレオタードの股間部分をくり抜いたというしょうもないものだったが(次の日、出チン状態で準備体操をするおやじの姿には、哀愁が漂っていた)。他人が戦士や魔法使いを目指して日々努力する姿を見ながら、おれはカタチだけの夢をつくりあげ、空しいマスターベーションを続けた。孤独な踊りを続けた。そのときは、もちろんそれが単なる刹那的なオナニーであるとは気づいてもいなかったのだが。

はたしておれは、「意思」してきただろうか。

カッコだけはいい「意志」は掲げた。でもその「意志」は、おれの「意思」と結びついていただろうか。最近のおれは、よくそんなことを考える。こんな考えが頭をもたげると、やりきれなくて、おれはもう床につくしかなくなる。眠りに入るまでが勝負だが、入ってしまえば、次の朝まではなんとかなる。できれば夢も見たくない。絶対の無。振動する空気がない、ひとつの点。自分が存在しないという感覚すら存在しない、極無彩色の世界。

けれども、死は選ばなかった。選ぶことができなかった。死は最高の魅力であったが、ただ、偶然のみがそれを自分にもたらすことを期待した。ここでもやはり意思はなされなかった。あるいは、断片的な要素が妄想の城を構築するチラリズムのように、そして、まさにその点においてエロティシズムがひとつの頂上を迎えるように、死の全体が見えてしまえば、その悦びもまた失せるのではないかとも考えた。けっきょく、「死を死ぬ」ことができないことに絶望していた。
そしていつも、朝は残酷に、やってくる。

今日の残酷は、雨と風とともにあった。旅費もそろそろ底をついてきた。稼ぎに出ねばならない。
おれは、無と有とを隔てる布団をのけて、再び帰ってくる。生活の糧を得るために外に出る。今日も生を否定しながら、生を肯定する。
(Inspired by Soren Kierkegaard,1849“Sygdommen til Doden”)

「下の名前はジュンです。」

2004/10/09(土) そして時は動き出す!(ザ・ワールド)
今週の火曜試験勉強から解放されたのでまた通いだしたTSUTAYAの帰り、寮のダチっ子とおしゃぶりしながら歩ってると、前方から一人女の子が歩いて来るではありませんか。
もちチラ見する訳で
んですれ違ってまた話始めるといきなし
「竹谷サン」
て呼び止められたわけで
心中、俺のファン?とか胸踊るオドる。んで振り返ってみると、なんか見覚えある顔。なんとそこには一年数ヶ月前に別れ、いやフられ?あー、音信不通になった元彼女が…
そのまま久しぶりから始まってその後や近況を10分位話して別れました。
いやー、昔は二度と会いたくないとか会ったら文句言うとかパチキかましたるとか思ってたけど案外普通に話せて、すごいスッキリした気分に。
後日談として、すっごい腹痛いからオナラで誤魔化そーとしたら少し実が顔を出したとゆー。パンツは無事。
何が言いたかったてと、時が経てば人間変わるし、漏らした話も笑い話になると!今回の漏らしでは泣かなかった俺は偉い!!
運子

2004/10/07(木) 字数制限あり
半年間の試用期間を経て、10月1日を以て正職員になりました。ぱちぱち(^ー^)そんな私の最近のモットーは、《可能な限りの時間とお金を遊びに費やす》[*電球*]結婚の予定もなければ車を買うつもりもないので、大掛りな貯蓄の必要なし。飲みだ[*ビール*]旅行だ[*新幹線*]と暇あらば遊び歩き、蓄積した疲労を月曜の夜に回復させる… そんな感じ。《動》の私。一方で、一人のんびり街をブラブラしカフェで読書したりするのが大好きな《静》の私も健在。 自分の好きなもの・人・こと・場所… そういうものに囲まれて毎日過ごせたら素敵だよね[*ピカピカ*] 自分次第なのかなぁ、なんて思う今日この頃ー

2004/10/05(火) GO!−COMPUTER
※今回のコラムは夜中に変なテンションで書いてるので結構ひどいです.

合コンに替わる,画期的な出会いのシステムってできないのでしょうか?
僕は合コンが苦手で,そんな問題提起をしてみますが,外国の大学生とかって何がきっかけで付き合ったりするのですかね?
もしかして合コンってグローバルスタンダードなのですか?

まあそんな戯言から現実に目を戻しますと.10日後くらいに合コンがあったりしちゃうわけで(「表」担当の彼も一緒),毎日夜になると少なからず不安です.
僕は普段から,自分から発言することが少ないほうで,気の利いた質問とか思いつかないことが多いです.学校の忙しさとか,サークルとか,出身地とか,そんな陳腐な話題を振ってしまいます.こんなありきたりな質問にはありきたりの応答がお似合いなわけで,何回目に話すかわからない位の定型文ペースト乱発の会話になりがちじゃありませんか?
たとえば自分が,出身地(青森県)について語るとき,ネタに困ると,ついフジTVが映らない話に逃げてしまいます.手垢がいっぱいついて半分腐ったような話をしてしまい,話してて自己嫌悪します.けどこの手の持ちネタ系の話は,結構間を持たせることができるので,気まずい沈黙よりはマシでしょうか.
よく一期一会といいますが,これほど合コンにぴったりの四字熟語も無いでしょう.たった1度,合コンしただけのひとを電話帳の中に探すことはそんなに難しいことではないと思います.しかし次こそは,なんとか実りある合コンにしたい,と考えています.
自分の過去の合コンのデータを参照し,分析し,次戦に向けて方向性を決めていきたいのですが,あいにく,ほとんどの記憶が欠落しています.これは酒のせいなのでしょうか.それとも嫌な記憶はなるべく思い出したくない,という自然の法則でしょうか.
ある友人は「メジャーは分析癖が強すぎる」と言っていましたが,たかが合コン,なんとかなるようになるんでしょうか.合コン,それは全ての論理が机上の空論と化す,本能と本音の仁義なき戦闘なのでしょうか.
ぶっちゃけた話,僕はかなりのチキンです.その精神的弱さが理論という鎧を必要としてしまうのだと思います.これは僕の人生すべてに言えます.自分を勇気づける理論がないと不安であるという弱さ……
次の合コン、自分のキャラは
「強がって見せてるけど,実は弱い僕」
という設定で、
「なぜかわからないけどきみの前では素直になれる」
みたいな感じで攻めたらどうなるんでしょう.

商店街も書きました.そちらもかなり痛いんであんまりおすすめできません.
メジャー
田京さんがんばってください

2004/10/04(月) イン サァアーイレェーンス(隆一)+
先日、卒論の題目届けに担当教官のハンコが必要だったので、やむをえずいちども喋ったことのない教授のところに向かった。論文の概要、章立て、参考文献表を携え、いざ出陣。一応、論文の構想は熟考していったつもりだったのが、遠回しに「おまえの構想には背骨のダイナミズムが感じられない」といわれた。

あなや(ひさしぶりです)!「中身がない」ということではないか!しかしそんなことはどうでもよい。中身がない人間だといわれるのには慣れているカラ。むしろ、そういわれることに最近は快感すら覚えるカラ。ダイナミスタの商店街ものには期待してるカラ。なんて、プレッシャーかけたりしてみるカラ。

教授とのやりとりは1時間半ほどにも及んだのだが、7割がた沈黙。そんなにも長い時間何もいわず何をしていたと思う?ちんちん掻いてたわけではないよ。おれは、ハンコすらもらえればよく、さっさと帰りたかったのよ。いや、飯を食ってから帰りたかった。ひとりで。何やってたかっていうと、おれは沈黙を武器に壮絶な闘いをしていたのよ。

(大先生、あなたのおっしゃることはよくわかりました。すなわち、それはぼくが馬鹿だということ。たしかに、ぼくは馬鹿です。考えるアタマがないからこうして黙っているのです。ほうら、ぼくの後頭部辺りから馬鹿のアウラ(俗に、オーラ)が出てるでしょう?それはマボロシでも、「ペヤングソースヤキソバ」CMの山田クンでもないのです。先生、お気を確かに。ちゃんとしのすけ。(中略)だから、馬鹿に馬鹿といってもしょうがないでしょう?ここはひとつ、ぼくを帰らせてみてはどうでしょうか?名案!名案!えっ?論文の中身?そんなもの知りません。だってぼく、バカァアンなんですもの。ほら、ぼくのアタマのなかでウマとシカが交尾を始めたでしょう?これは非常によい兆候です。今度はよい構想が生まれるという兆候です。えっ?ウマとシカの仔はバカァアンですって?そんなこと知りません。未来など誰にも予想できないのですから。ぼくにも、貴方にも)

こののらりくらりとしたバカァアン・アウラが功を奏したのか、ようやくのことでおれは解き放たれた。

前置きが長くなった。つづきは来週。おれもいちど連続ものを書いてみたかったのよ。一大叙事詩を描くのだ!現代版『オデュッセイア』(ホメロス)を書くのだ(読んだときねえけど)!

「オートモービルだぁ!珍しいなぁ!」(パズー)
「あの人たち、海賊よ!」(シータ)

P.S. たきょおごう、GO! ごおぉぉぉぉおおおう!(10.6)


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