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2009/06/21(日)
「個」として
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―「個」で対等に話がしたいと思ってもなかなか難しいのは、社会という場ではしょうがないことなのだろうか
所属やダレダレ先生の師事などを一切抜きにして、目の前にある作品と自分の「個」で話をすることは出来ないのだろうか―
アートに可能性があるとしたら、私は誰もが対等な平地に立てることだと強く実感する。
「個」としての制作者は、その作品に対して、100%の責任を持つ必要があり、またその作品を観るのであればそれに対等な、つまり「個」として100%で対峙する責任があるだろう。
商談などはそれをしてからにしよう。
人間と人間でまず何が生み出せたか、
それを見ずして、話を進めたくはない。
現在の社会が混沌としている一つの理由に、責任の所在の不明確さがある。ミスを誰かのせいにして自らを守る連鎖。
自分の責任を自分の仕事に100%持つことが出来ないから、仕事が曖昧になり、責任のなすりつけ合いが始まる。
「個」として自らの責任を100%持ち、皆が立てばもう少し社会は良くなるはずだろう。
皆、何かをつくっているアーティスト。
常に100%の責任を持ち目の前の事柄に対峙したい。
今日の「一写一想」
『アンサア』 http://blogs.yahoo.co.jp/a_s_a_1_9_8_2/59998642.html
『自鳴琴』 http://blogs.yahoo.co.jp/a_s_a_1_9_8_2/59999264.html
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