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2007/06/06(水)
余白
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明確に見えていたイメージが急に見えなくなって、さらに飛躍したイメージがみえて、またそれがどんなだったか思い出せなくなる。
展覧会を終えてまた少し見えたと思ったら見えない日々が続いています。
ヤマウチアートギャラリーで開催されている「オオノユキコ」展に展示されている作品を見て、作品の意図と感覚について考えていました。
一見、感覚的であるのだけれど、制作にはある計画性が感じられる。
「全てがコンセプトどおりだったら作品をつくる意味がない」
と、僕がまだ作品を制作していない時に知り合った制作者の言葉が頭をよぎる。
コンセプトの明確さ、表現手段、身体の感覚、言葉にできない何か、は相反するものなのか、同質なものなのか。
自己満足なら作品を見せることはないのではないか、作品を見せるということはどういうことか。
「作家も作品に対してわからないことがある」
去年の六月、川越市立美術館で行われたアメリアアレナス氏の対話型鑑賞でのアレナスの言葉。
齋藤研氏は、児童からの自身の作品に対しての質問に「僕もよくわからない」と答えた。
参加していた児童は、作家が「よくわからない」ことに対して、自分の経験や体験を通し、みて、自分の考えを見出す。
作者が残した、或いは、残さざるを得なかった、埋めようとしても埋められない「余白」のようなものが作品にはあるのではないかと感じました。
自分の作品に対してじっくり考えてみようと思います。
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