asa. Diary
asa.の「今日」です。
ホームページ最新月全表示|携帯へURLを送る(i-modevodafoneEZweb

2007年6月
前の月 次の月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新の絵日記ダイジェスト
2012/10/17 戦の後で
2012/07/31 ないしょ話
2012/03/23 最新情報のご案内
2011/10/08 神奈川県立近代美術館・葉山館にて『モホイ=ナジ/インモーション』展関連企画
2011/09/05 「5750分展V」の取り組みが東武よみうりに掲載

直接移動: 201210 7 3 月  201110 9 8 7 5 4 3 2 1 月  201012 11 10 9 8 6 5 4 3 2 1 月  200912 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200812 11 10 9 8 6 5 4 3 2 1 月  200712 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200612 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200512 11 10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 月  200412 11 10 9 8 月 

2007/06/25(月) 海で泳ぐ
ここ数日間でとても素敵な出会いがありました。


人との縁ほど不思議なものはないと再確認しました。


出会った方は、私の知っているいろいろな人と繋がりがありました。私の大学の先生と、先日ギャラリーで出会った絵描きさんと、


世間はイメージしているほど広くないのかもしれません。



出会いは、自分を成長させてくれるものです。



様々な価値観を持った人とコミュニケーションをとることで自分の価値観を再認識することができます。

改めて自分を認められることもあれば、自分の価値観を脅かされることもあるでしょう。

そうすることで、深く広がっていくものなのだと感じた数日間でした。




自分のプールで泳いでいることほど退屈なものはありません。

一歩踏み出すことで、私達は海で泳ぐことができる。

たどり着く大陸を想像しながら泳いで行きたいと強く思いました。






ギャラリー椿GT2で開催中の展覧会に行ってきました。

http://www.gallery-tsubaki.jp/2007/0625gt/index.htm

様々な表現方法がスペースを彩っていました。

制作意欲が湧く展示会です。

2007/06/18(月) 「時間」の実感 ノマディック美術館
グレゴリー・コルベール「ashes and snow」展:ノマディック美術館に行ってきました。

http://www.ashesandsnow.org/jp/index.php

休日ということもあり、沢山の人が訪れていました。

約35分待ちで、日差しの強い昨日は辛かったです。



今回の展示の為にコンテナを四段に積み上げ建設されたスペースに、約50点の写真、映像3点が展示されていました。


この美術館は、展示後撤去されるらしいです。




作品は、見たこともない光景と現象の「時間」がそこには写っていました。


作品を見ていくと現実にこの「時間」がある(あった)ということに奇妙さを感じ、次第にそれが大きくなってきました。


しかし、奇妙さは大きな衝撃に変わりました。


この「時間」を撮る為には、想像も付かないほどの時間が必要だと実感したからです。


動物のしぐさや、動物と人間との距離、構図を計算されセピア調に統一された作品は、アーティストによって、長い時間をかけ試行錯誤され、初めて生み出せるものなのでしょう。







展覧会中に頭の中に浮かんだことは、


「ロバート・ノージック『生のなかの螺旋』1989年」の一説です。


「肖像画と肖像写真を比べた時、なぜ肖像画に深みがないのかを考察し、これを時間の量に関係付ける。写真は、被写体の瞬間的映像を提供するのみであるのに対し、肖像画は、モデルの座っている間の延長した時間の結果であり、その間(画家がモデルを描いている時間)に人間とおそらく光などといった環境に変化が起こっている。」


といったものです。


写真を撮る時も、もちろんシャッターを押す時だけが作品制作ではありませんが、じっくりモデルとその周りの環境に身を置いて思考し、観察して思考する連続を繰り返すことで制作してゆく絵画の方が時間的な量が多く、肖像画には肖像写真にはない深みがにじみ出るというのが作者の見解なのだと私は解釈しました。


グレゴリー・コルベール氏の写真はローバート・ノージック氏のいう肖像画の時間を内在しているのではないかと思いました。


先日の日記で記述した「つづけるエネルギー」はこうして作品に現れてくるのだと実感した作品展でした。


展覧会は6月24日までです。

2007/06/08(金) 円周
―旅は、目的地に到着しただけでは終わらない。

いや、出発地に戻っただけでも終わらない。旅が終わったところから、また新たに始まる旅があるからだ―


沢木耕太郎




ふとこの言葉を思い出す。



一日一日、今、この瞬間が、通過点でありゴールである。

そして出発点だ。




自分の望んだとおりに物事は動き進んでゆく。

今日の自分の見た景色は、紛れもなく自分の望んだ景色だ。



怠惰になればなるほど、刺激的な風景は見れないだろう。

言い訳を吐いているだけでは、興奮できる場面に立ちあえないだろう。

真の喜びを得るためには、様々な困難を越えなくては味わうことができない。

苦しみ、楽しんで、苦しんで、楽しんで、ぐるぐるまわって前よりも、少し大きな円周になることを続けていけばいい。



自分を信じること。

支えてくれている沢山の人たちに感謝すること。



次に行こうと思います。

2007/06/06(水) 余白
明確に見えていたイメージが急に見えなくなって、さらに飛躍したイメージがみえて、またそれがどんなだったか思い出せなくなる。


展覧会を終えてまた少し見えたと思ったら見えない日々が続いています。


ヤマウチアートギャラリーで開催されている「オオノユキコ」展に展示されている作品を見て、作品の意図と感覚について考えていました。


一見、感覚的であるのだけれど、制作にはある計画性が感じられる。


「全てがコンセプトどおりだったら作品をつくる意味がない」



と、僕がまだ作品を制作していない時に知り合った制作者の言葉が頭をよぎる。



コンセプトの明確さ、表現手段、身体の感覚、言葉にできない何か、は相反するものなのか、同質なものなのか。



自己満足なら作品を見せることはないのではないか、作品を見せるということはどういうことか。



「作家も作品に対してわからないことがある」



去年の六月、川越市立美術館で行われたアメリアアレナス氏の対話型鑑賞でのアレナスの言葉。



齋藤研氏は、児童からの自身の作品に対しての質問に「僕もよくわからない」と答えた。



参加していた児童は、作家が「よくわからない」ことに対して、自分の経験や体験を通し、みて、自分の考えを見出す。



作者が残した、或いは、残さざるを得なかった、埋めようとしても埋められない「余白」のようなものが作品にはあるのではないかと感じました。



自分の作品に対してじっくり考えてみようと思います。

2007/06/04(月) X−JAPAN
X復活!


熱い記事が報道されました。


いろいろと複雑な気分は拭えませんが素直にうれしいです。


亡くなったhideのパートはゲストギタリスト形式にする考えのようです。Taijiをギターに加えれば純度が保てると思うのだけれど…。




個人的にpataが好きなので、またpataのギタープレイが見られるのが楽しみ。






1997年の解散のとき、自分は中三でした。


Xとの出会いは、小学校5年の時に父親が車で流していた『Say Anything』。


ジャケットも衝撃でした。


乱暴的・凶暴的なイメージのあったXは先入観で受け入れられませんでしたが、美しいピアノ中心のバラードを聴き、そしてその曲をXが歌っていると知って、大きな衝撃を受けました。


―乱暴的な人たちがこんなに美しい曲を演奏できるのか!


それから小遣いでCDを買い集め、友達とカラオケに行っては、「紅だーーー!」と叫び、静かにバラードを歌いました。


多感な時期でした(笑)。




9月に解散会見、12月のラストライヴで解散が決定したX。


運良くチケットが取れ、初めてのライヴがラストライヴになりました。


ラストライヴに向かう、電車の中のコスプレの人たちにビビリ、さらにドームの入り口で円陣しているファンにビビリました。


そして、一曲目の『Rusty Nail』。


自分の声が聞こえなくなるほどの音に包まれたのはこの時が初めてで、YOSHIKIの命を削っているかのようなドラムプレイをはじめとしたメンバー、一人一人のエネルギーを肌で感じました。



復活してあの時以上のエネルギーを感じることができるか。



いまから楽しみです。


 Copyright ©2003 FC2 Inc. All Rights Reserved.