asa. Diary
asa.の「今日」です。
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2006/06/22(木) 夏臭の中で
夏臭の中で


足掻いています!




フィールドに出ると

そこで感じられるものは

夏の臭い




写真を始めたときに

一冊の写真集をつくった

タイトルは「夏臭」

夏の臭いをテーマにした青い写真集。




その時と

なんら変わりのない

確かにそよぐ夏臭




うん

それはちゃんと感じられた



けれど、確かに何かが違う



違うものは

なんだろうか





過ぎていくしかない時間を留めるために

写真を撮っていた

その時の風の臭いがする写真を撮りたいと願った

笑い声の仲間たちを撮りたいと願った




けれど

今は何かどれも違うと感じるんだ



僕の身からでた本当の意味でないように感じるんだ



「わかっていることは、わからないということだけ」



今ならこの言葉の意味がわかる



わかっていることが何かひとつでもあっただろうか




わかることのできないものを

わかろうとして

日々

人は

足掻くのかもしれないな



そう思ったとき

日々を

足掻くために

疑うために

写真を撮っていたのかもしれないと

思うことができた



それは生きることと同意なのかもしれないと



夏臭の中で思った


2006/06/19(月) そうだ、岡山へ行こう!
・久しぶりの晴れ!そして夏日!!

かなり熱い日でした。

今日は、中学校出勤でした。

昼休みのサッカーでは、仮想「日本対ブラジル」を行いました。

アドリアーノがハットトリック!

そして、なぜか、日本のディフェンスラインには田中マルクストゥーリオがいました(笑)

試合結果は、8-7で日本の勝利!

大丈夫!!

皆さんも日本の勝利を信じましょう!!



・水面下で話が進んでいたことが正式に決まったのでお伝えします。

2006.7.21〜8.20に岡山県立美術館で「mite! おかやま」が開催されます!

そこに、「またたき」の出品が決まりました!

いきなりのお話だったので未だに実感がないのですが、作品を今日、送りました。

ブランクーシや国吉康雄など名だたる作家の作品が展示されるようです。

水をテーマにしたコーナーに出品されるとの事なので、楽しみです。



夏休みは、


―そうだ、岡山へ行こう!

2006/06/18(日) 写真について
「自分は本当に写真が撮りたいのか」を最近疑問に思う。

カメラがあることで、日々見えなくなってしまっているものがとても多くあるように感じられるからだ。

 沢木耕太郎は旅を人生に見立てた。

アジアを放浪し、ギリシャにたどり着いた彼は、今までに感じなかった違和感を感じるようになる。

目の前で起こることの多くに既知感を感じてしまう自分に気付く。

旅そのものの年齢があるとしたら、長いアジアの旅を経た今、旅の青年期を終えつつあるからなのではないだろうか。

起こる全てに興味を持てていた青年期が終わってしまい壮年期、又は老年期に入ってしまっているのかもしれない。

だから、何か今までにない違和感を感じているのだろう。

と彼は書いている。


 同様に、私の写真についての年齢があるとしたらどのくらいだろうか?

確実にカメラを初めて持ったときに比べてシャッターを押す回数は激減している。

それは、悪いことではないように感じられるが、何か、シャッターを押す前に、知ったようになってしまっている自分が感じられて、それは確実に「悪」だと感じる。

冒頭の疑問に対して、答えを急ぐ必要はないけれど、今まで、先延ばしにしてきて、さらに先延ばしにもできる問題でもないことを強く実感している。

 「自分は本当に写真が撮りたいのか」

2006/06/07(水) 作品展を終えてU―仲間たちへ
ありがとう!

今にはじまったことではないけれど、みんながいなければ成し得ることができない展示でした。


二回にわたり開催した鬼合宿。

深夜、

ハリパネを切るカッターがふるえました。

両面テープを貼る手もふるえました。

三時のオヤツ、白玉に心ふるえました。


合宿のまま展示会場での展示作業。

皆、ほとんど寝ていない中での作業、

怪我をした赤木のように、

「精神が肉体を超えはじめていました」

そして、

お昼行ったカレー屋さんで落ちました。



展示がはじまり、御花が届きました。

いろいろな人と出会いました。

修学旅行生が見に来てくれました。

地元の施設の方が見に来てくれました。

仲間がたくさん見に来てくれました。



展示会を思い出すたびに、こうした仲間と共有した時間を思い出すことができる。

そのことが、何よりも幸せなことです。


ありがとう!


打ち揚げしましょう(笑)

2006/06/06(火) 作品展を終えて
今年一月に行った卒業制作展の作品を見ながら、ノートに記した言葉がある。



「…次、これ以上をやるのかと思うと少しまいる。」



卒業制作では、約14時間、己を描き続けた作品を出した。

1分30秒感覚で、キチガイのごとく自らを確認し続ける行為を行う。

日が昇る頃には、その数は504回に達していた。



今回の作品展でも、卒制の作品を出したが、卒制で展示したときとは何かが違っていた。

作品をフラットに一目できたということももちろんあるが、それだけではない。



卒制の時よりも客観的に自分の作品を見ることができたということが何より大きかったように思う。

あの時は、つくったときの熱を纏ったまま、自分の作品を主観的にしか見れていなかったと今、思う。

落ち着いた今見た作品の感想は、とても馬鹿げている。

けれど、叫びにも似た、声が聞こえてくる。

気をしっかり持っていなければ、飲み込まれそうになる恐ろしささえ感じた。

作品をじっくり見て、そうまでして自分が見たかったもの、表したかったものは何だろうと考えた。


















































































































時間…



















そう、



私は、時間を可視化したかったのだと思う。




自らが存在しているこの時間を可視化したかった。





けれど、それは、どんなに作品を見ても明確に見えることはなかった。

見えては消えてを繰り返し、しまいには見えなくなる不思議な感覚を得た。






さあ、次どうしようか?





しばらく、のんびり考えようと思います。

2006/06/04(日) またたき―アメリア・アレナス対話型鑑賞法
 川越市立美術館で5/28〜6/4まで行っていた個展「浅見俊哉作品展」が終了しました。

ご協力いただいた皆様には、この場を借りて深く御礼申し上げます。

 最終日前日の6/3日土曜日、埼玉県公立小学校児童(小学五年生)とアメリア・アレナスとの対話型鑑賞法が行われました。

館内展示室常設展の作品二点、企画展、斉藤研作品展から一点、そして私の作品展出品作から一点で対話型鑑賞法が行われました。

私の作品は「またたき」が用いられました。

アレナスは、初め児童にじっくり作品を見せ、何でも気が付いたことを発言させる方法を用いて鑑賞を進めていきます。

児童の発言に対して、想像力を広げるような問いかけをしたり、児童の意見に共感したりしながら、児童の発言をどんどんと促していきます。

いつの間にか、児童達一人一人は、積極的に意見を言うことで、自らが主人公になっていく。

そして、他人の意見を聞き、その他人の意見について考え、「自分はそれについてはこう思う」と発言したり、「私もその意見に共感する」と他人の意見に賛同したりしながら作品の鑑賞を深めていく。



ここで「またたき」の対話型鑑賞を紹介します。一部省略。



アレナス:初めに(作品を)よく見てください。

四、五分経過

アレナス:何か意見がある人いますか?

驚くべきことに、参加している児童全員が手を挙げた。

アレナス:ワン・ツー・スリー………。!(手を挙げた児童に発言する順番を言い、順に発言させていく。)

児童1:水がうなっている

児童2:いろいろなものがうつっているみたい

児童3:(波紋は)すぐ見えなくなっちゃうのに時間を止めたみたいに見える

児童4:青白いから宇宙に見える

アレナス:月から地球を撮った写真を思い浮かべたのかな?そんな感じするね。

児童5:石だけでなく他のものを落としたみたい

児童6:(波紋の)ひとつひとつが違うから(光り方に)インパクトがある

アレナス:投げ方が違うのかな?何が落ちたかは分からないけれど光っているね。

児童7:海にいるくらげに見えてきた

児童8:魚が息をしているんじゃないかな

アレナス:実は水中に何かがいて波紋が生じたんじゃない?

児童9:水自体が床に落ちたみたい!!

アレナス:だから、作品が床に展示されているのかもね。

児童10:(作品を)つくったひとはきっと楽しい気持ちで遊んでいたんじゃないかな。

児童11:水っておもしろいね

児童12:いつもみているものだけどきれい。

アレナス:いつもみているものでも、光や影や形をこうしてみてみるととてもミステリアスだね。

児童13:魚が上から飛び込んだんだよ

児童14:水が遅くなったり早くなったりしているみたい。

児童15:太陽の光が水に反射している

アレナス:みんな、水の中に何があるのかとても知りたくてウズウズしているね。でも、水の中に何があるのかは分からない。きっと作者は水の中に何があるのか、みんなに知ってほしかったんだと思います。



そして、制作者が児童の質問を受ける時間になり、通訳の方から「アーティストのアサミさんです。」と紹介され児童の前に呼ばれました。

ここでの出来事は割愛します(笑)




そして、鑑賞法を終えレクチャーの時間にアレナスは次のように言った。

「この一連のプロセスでは、作品の解説、内容、意図を伝えるのが目的でなく、作品を通して、児童が主人公になることが大切です。主人公になるとは、児童自らが主体的に作品を見て、思考し、発言し、また見て、思考し、発言することが作品を理解することよりも必要なことです。子どもはもっともっと発言したいということに、私達は気が付かなくてはなりません」と。


美術作品の味わい方に正解はない。

だからこそ、児童一人一人が自分で感じた意見を言うことができ、他人の意見を認めることもできるのだと実感しました。

それは、私達大人でも同意です。

そこに、美術作品の一つの価値があるのかもしれません。



最後に、アレナスは私に近づいてきて言いました。

「…Excellent Work!!! だけど、あなたの作品は見る人がいて初めて成り立つことを忘れないで。」

2006/06/02(金) 正念場!!
作品展、川越市立美術館で6月4日まで開催しています。

残すところ土・日だけになりました。

しかし、明日メインイベントがあります。

美術鑑賞の第一人者である元ニューヨーク近代美術館学芸員のアメリア・アレナスが、私の作品を用いて鑑賞法を実践します。

県内公立小学校の小学五年生、数十名を対象にアレナスの鑑賞法が目の前で行われます。しかも自分の作品で…。

例えるなら、草サッカーにジーコが視察に来るようなもの。

かなり、ハイプレッシャーです。

しかし、自分の作品を通して美術教育に貢献できることは、この上ない喜びです。

つくり続けていくことはとても困難なことだけれど、つくっているときには想像できないこうしたサプライズが、つくり続けていく原動力なんだと改めて感じました。

自分の作品を、児童はどう捉えるのだろう。

つくっている時以上にワクワクしている自分が心地良いです。


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