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2006/05/05(金)
朝散歩で見えたもの
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最近、出勤30分前に、最寄り駅に着くようにしている。
「歩く歩道」(恵比寿ガーデンプレイスと駅との連絡通路)を使えば、ものの5分で、写美(東京都写真美術館)に着くのだが、目的地と家との往復だけでは、息がつまる、そのため毎朝、恵比寿徘徊(遠回り)しつつ出勤している。
昨日通ったルートは、今日は使わない。
今日のルートは、明日は使わない。
何日か続けていくうちに、恵比寿の自分なりの地図が頭の中に出来上がってくる。
ガーデンプレイスだけしか知らなかった時の恵比寿のイメージが、こうして歩いていくことで変化していくのが、実に心地よい。
高級、セレブ、洋式などという形容詞がつく恵比寿に対して、私の恵比寿徘徊で眼前に広がる景色は、(住人には怒られるかもしれないが)前述した形容詞は間違っても用いられない。
むしろ、緑の、風が心地よい、陽だまりの、落ち着いた、静かな、あたたかい、など何処にでもある風景がそこにはある。
その何処にでもあるような風景は、私を高揚させる。
斜面を登り、降り、登り、細い路地を通過する。
恵比寿は起伏の激しい土地柄なことも初めて知った。
時折、野良猫と出くわし、カメラを向けては逃げられる。
住民がゴミ出しをし、世間話をしている。
干された布団が、日を反射させて美しい。
そんな、当たり前な風景がそこにはある。
それを知ってしまうと、ガーデンプレイス自体がとても滑稽に感じられてくる。
いや、滑稽なのは、自分自身なのかもしれない。
なぜなら、一つの側面ででしか、恵比寿という街を見れていなかった、あるいは、その側面で恵比寿を定義してしまったからだ。
「ガーデンプレイス=恵比寿」
仕事、あるいはショッピングといった目的だけを満たすのであれば、それ以上の恵比寿は必要ないのかもしれない。
恵比寿を徘徊しながら思う。
こういった事例は、自らの身の回りにとても多く存在しているのではないかと。
目の前にうつる、そのものの本質を、己の身体で確認せず、何らかの情報で、定義して安心してしまっているのではないかと。
社会に出て、一番恐ろしいのは、忙しさを理由に、考えを止めてしまうことだ。
そういった点でも、この朝散歩は、私にとって、とても有意義なものである。
明日は、どんな景色が見えるだろう。
いまから楽しみだ。
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