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2006/02/12(日)
多角的な視点について
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・眼を開くと本当に様々なものが、眼に飛び込んでくる。
あるものがあるものに影響を与え、あるものが生まれる。
そのあるものはまたあるものに影響を与える。
眼にうつる全てのものが、そうである。
互いに影響しあい存在している。
文化だって、食物連鎖だって、思想だって…
広く生物が営んできた現在の形が、今、眼に映るものだ。
そうなると、もはや教科として別々に学んできたことが馬鹿らしく思えるのである。
確かに、別々に学んできたからこそ、こうして一つ一つの関係性に気付くことができたのかもしれないし、繋がっていくという感覚を持って、それを実感できるのだとも思う。
最近よく感じることは、
理科は文型の私に関係ないからとか、国語は理系にはいらないとか、そういう思考の奴らが、多すぎるように感じられる。
教師の中にも、そういった考えを持っている人が多いような気がする。
時間的にゆとりがないのは百も承知だが、「暗記事項」を教えるだけならば、塾でいいだろう。
(暗記事項だけで計られる教育そのものがまだまだ問題なのだが)
総合的な学習の時間に、計算問題と漢字練習の一緒になったプリントを学習させているのを見て、そういうことじゃないだろ!と憤慨したのを最近になって思い出した。
総合的な学習の時間の本来の意味は、多角的な視点で物事の問題を見つけ、自ら解決していくことだ。
各教科で学んでいることは、一つの物事を多角的に(国語的に、数学的に、社会的に、理科的に、芸術的にetc...)見るためのいわば道具であり、その一つの視点(道具)も本来失ってはならないものだ。
Aを正面から見ただけでは、Bと区別がつかないかもしれない。
けれど
Aを側面から見れば、Bと違うと判断できるかもしれない。
Aを底から見れば、Cとも違うと判断できるかもしれない。
そしてDとの共通点が見つかるかもしれない。
多角的な視点を持った教師が、教育に携わるべきだ。
これは理想ではない。
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