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2005/08/22(月)
現在の写真にとって表現とは何か
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というキャッチの本をちょろっと読んだ。
―写真発明以前の人間の記憶は曖昧なもの。人の話などにより摩り替ることもある。当然、自分の小さいころを見るすべも無い。写真発明後の私達の記憶は、写真のそれである場合が多い。あまりかかわりの無かった友人の顔は卒業アルバムのそれである。現在たくさんの写真が街中に氾濫している―
といったとても興味深い内容の記述がされていた。
―記録という役割が主である写真が芸術として認知されはじめた―
以前は特殊な技術を必要としていた写真は、その機械の進歩により、今では誰でも撮る事ができる。
そういった時、自分なりの表現とは何であろうか。
私にしか表すことができないものとは何であろうか。
その一つの答えとして私は「私の行った行為の記録」を挙げる。
リチャードロングという芸術家は、自分の歩いた道を写真で記録した。その写真には一本の道が出来ていて、それが彼の歩いた道の記録になっている、それはまぎれもなく彼の表現である。
そうした作品には、厳密な計画が必要であることは言うまでも無い。
こういった、自分の行為を捉える領域においての写真は最も「自分らしい」写真表現であるように考える。
私にしか撮れない写真を通して、私の表現とはなにかを追求したい。
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