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2005/06/10(金)
「造形あそび」とは?
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・先日、ダメダシをくらって一から指導案を見直しました。
「造形あそび」だけで終わるのは、私には不本意なので、「造形あそび」から「表現の活動」にどうにか移行できないかを中心に考えました。
そう考える理由は二つあります。
一つ目は、「造形あそび」で活動を楽しんだ児童は、授業が終わると「楽しい活動であった」と、それで終わりで、その先の発展性が望めないこと。
二つ目は、鑑賞の時間を充実させたものにしたいからです。
前者は、
「造形あそび」だから体験をさせ、楽しく活動できればそれでおしまいという勘違いが、意外に浸透してしまっていると感じました。「造形あそび」という言葉にも問題があると思います。
「あそび」のなかで子どもたちは様々なことを学ぶのは確かです。
しかし、それだけでは学校で行う必要は無いのではないでしょうか?
学校で「造形あそび」を、行う理由は、その体験を生かして、もっと発展させ、こういう表現もできると指摘することにあると思います。
後者については、
鑑賞の時間を確保するのは、今の授業数が少ない状況の中では、難しいことです。
しかし、表現の活動と、鑑賞の活動の二つの活動があって初めて、美術(図画工作)の学校で行う意味が見えてきます。
それは、それぞれ表現したいものに近づけた、いわば児童の想い、工夫が具現化した作品が、生徒(児童数)あることです。
たくさんの友人の作品を見ることで、友人の想い、工夫点を共有し、認め、また自分の表現の工夫点、友人との違いも明らかになるでしょう。
それはいわば、他人を認める能力であり、自分は他人とは異なり、自分の表現は自分特有のものだという自分を認める能力ということもできます。
話は戻りますが、ただ楽しい「造形あそび」では、他人の工夫点が見えにくいことは明らかです。
なぜなら、自分も活動をして楽しいで終わってしまい。表したいものに近づけていく思考、工夫をしていないからです。
自分が、思考工夫をせずに、他人のそれを感じ取ることは不可能に近いと考えます。
以上の理由で、私は、「造形あそび」だけでない「表現の活動」も盛り込んだ授業を行いたいと考えました。
幸い2時間あるので、初めの1時間は、新しい素材になれる「造形あそび」を行い、次の時間に「表現の活動」に発展し、終わりに「鑑賞の活動」を盛り込む授業を構成しようと思っています。
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