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2005/04/20(水)
ある写真集を読んで
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・写真集を見ていて腑に落ちないことがよくある。
例えば、
絵本の挿絵は、その物語にあったイメージが描かれ、そのイメージは、物語を繋げていくものだ。
小説は、自分の体験を通して、その物語のイメージを読み手が形作る。
小説がある種、読み終わったという満足感を得るのは、その中に読み手が共感したり、感銘を受けたり、憤りを感じたりするからであろう。
そこで、
写真は、小説の逆なのかなと思うわけである。
写真は、あるイメージとイメージを提示することで、ある文章(メッセージ)を見る手に伝えていく。
見る手は、今までの経験や空想やらを駆使して、なんとかその文章を組み立ててゆく。
そのイメージたちによる文章は、小説の物語の構成のように、綿密に計算されているはずだ。
それなのに、写真をみていて腑が落ちないことがある。
見る手のイメージは、とても自由なものなんだと思う。
作家が意図したイメージが必ずしも見る手が同じようには受け取らない。
ある写真集を読んでいて、
そのなかにある、写真で見る手は、イメージを固定する。
しかしページをめくり、次の写真に行くまでに、見る手には、様々なイメージが生まれている。
そのイメージを次の写真で固定する。
そして、
また、そのイメージを次の写真で固定する。
その連続…。
次第に、作家の意図するイメージが見る手に伝わってくる(ように編集されているはずである)。
それを考えると、
写真集を見ていて腑に落ちないことがよくあるということは、
見る手の、作家が意図したイメージや文章を読む視点、能力が未熟なのだと言えるだろう。
これに気づくと、
自分の写真のイメージの構成がいかに曖昧であり、感覚だけで並べ、推敲が足りていないかということが浮き彫りになる。
最後に、私は、
必ずしも作家の意図どうりの文章が、見る手に伝わらなくてもかまわないと考える。
しかし、そうだといって、意図の無い、または意図が曖昧な作品では、読むに値しないと考えるのである。
…がんばろ。。。
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