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2005/02/06(日)
なにかをすること 2
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・テストも終わり、時間ができたので少し、 今までの活動について、考えた。
自分が「やっている」と思っていた様々な活動―
これらは、目の前に、用意されたものをこなしてきただけなのではないか。
いわば、出された飯を食べるだけだったのではないか。
「なにかをすること」は、もっと別の大変な作業が裏にはあることに気づいた。
当たり前であるが、飯の材料を作る人、その材料を使って飯を作る人がいる。
このことに気づかず、 私は、その飯を食べ、お腹がいっぱいになり、満足していた。
このことに気づいたとき、全てを消したいと思うと同時に、言葉にできない恥ずかしさでいてもたってもいられなくなった。
私は、あそびあーとでワークショップを一からつくり、実践し、自分では、「やった」と思っていた。(1/29の日記より) 沢山の人が、このワークショップを楽しんでくれて、自分でも、大きな充実感を得た。
その、あそびあーとでの飲み会の後、協力してくれた業者の方にこういわれた。
「今回、君が、ワークショップをこの場所で実現できたという、機会をもてたことは、とても幸運なことであるし、R先生(代表の方)を初め沢山の先生方に感謝しなくてはいけない。もちろん、君の努力があったことは皆、よく分かっている。しかし、こういう場でできたこと、このこと自体はとても恵まれたことであり、これには、もっと大変な力が注がれているんだ。」 と。
さらに、
「こういったこと、学生には分からないっていったら、君はおこるだろう?」 と。
分かっていなかった。
自分の力があって成功したのだという充実感。 5月から12月まで用意してきた賜物だという充実感。 自分の協力があってイベントが成功したのだという充実感。 そんな自分中心の充実感でいっぱいだったのだ。
今考えると、なんて、おめでたかったのだろうと恥ずかしくなる。
自分が大変だったことしか見えていなかった。 自分がその場所でやらせてもらっているに過ぎないことに気づかなかった。
その裏では、このイベントのために動いていた、見えない沢山の力があった。それは、自分で行ってきたことなんて足元にも及ばない大きな力だ。
ワークショップに参加したことで、参加した気になり、いい体験をしたという実感を持って、全てを分かったような気がしていた。
一から「なにかをすること」は、すさまじい見えない力があるのだということ。出された飯をただ食べるだけでは、本当に大切なものを得ることはできない。
もちろんあの時の言葉、全部を理解できたわけじゃない。 でも、落ち着いて振り返った今、少しあの時よりは、理解できたと思う。
出されたものを食べただけで、満足してはいけない。
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