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2005/09/22(木)
本・『チョコレート工場の秘密』ロアルド・ダール著/柳瀬尚紀訳
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届いてさっそく読んでしまいました。
読んでみて、映画がけっこう原作に忠実に再現されていることを知り、驚きました。ウィリー・ワンカ氏に父親との新エピソードを加えたり、その登場シーンを凝ったり、あごひげがなかったといくつの変更もありましたが。
いろいろ感じたことのうち、感想を二つほど。 一つめは、子供はそんなにお菓子が好きなんだ、ということです。
ヘンゼルとグレーテルに出てくる「お菓子の家」はその原点ですが、ハリー・ポッターシリーズでも奇妙な魔法のお菓子など、お菓子についてはかなりの枚数を裂いています。それはつまり、「お菓子」を出すだけで多くの子供への魅力になると作者たちが考えていることを示しています。
私個人の子供時代を振り返ると、そこまでのお菓子への執着はありませんでした。小遣いをもらえば駄菓子に使い切る友人を尻目に、マンガばかり買っていましたから。お菓子が嫌いだったわけではないのですが、食べてそれきりのものよりも後々まで何度も楽しめるマンガの方に価値を置いていたわけです。そのせいか、こういった童話に出てくるお菓子の描写に魅力を感じたことはありません。 ならば本作のどこを楽しんだの?と突っ込まれそうですが。
二つめは、チャーリーの工場への招待チケットの入手法。拾ったお金でチョコを買い、それがチケット入手に結びつく。これは個人的な道徳感からすると、かなりの抵抗がありました。拾ったお金は交番に届けようという意識は、むしろ私の方が「バカ正直」だとは思うのですが。
吾妻ひでおのマンガ『失踪日記』の中で、交番で不審者として尋問されている作者が、サイフの中にお金が入っていることを指摘され、「拾ったんです」と言ってそれを警官がとがめないシーンがあります。
『失踪日記』は現実を元にして描かれたものですから、実際にそういう会話はあったのでしょう。警察官ですら拾得物を私物化したことに対する言及はしない。もはや拾ったお金は自分のものというのはごく当たり前の概念になっているのですね。
最後に、柳瀬尚紀の訳について。
本書の新訳の最大の特徴は、訳者が登場人物たちの名前のダール流のユーモアを読者に理解してもらおうとしたことだと思います。例えばチャーリー・バケットをチャーリー・バケツにしている。バケットはバケツのことだというのです。一番、変えられてしまったのはヴェルーカ・ソルト。彼女の名前はイボダラーケ・ショッパーになりました。ソルトは塩だからショッパー、VerucafはVerruca(イボ・タコ)に通じるからというのがその理由です。
確かにダールのユーモアをできるだけ理解してもらおうと思うなら、そういう訳し方もあるでしょう。ただ、これは感性の問題だと思います。私は名前というのは固有名詞だから、仮に原作者のなんらかの意図があったとしても、オリジナルを尊重し、注釈程度にとどめておいたほうが良いと思う方です。
ただ、訳者の解説の中で、私がひどく反感を覚える一行がありました。以前の翻訳にはどうやらキャラクターたちの名前は原名そのままであったらしいのですが、それを「あの訳書では名前が面白くもなんともない。はたして訳者がわかっていたのかどうか」と語っているのです。
原本の単語や表現をどう訳すかは、訳者の価値観やセンスの問題でしょう。それを「わかっていたのかどうか」とまで言うのは失礼ではないでしょうか。
本来であれば、私は名前をどう訳そうが気にしない方です。しかし、訳者の指摘をふまえてあえて私の価値観を述べれば、この実に荒唐無稽な物語にある程度のリアリティを持たせるためには、名前はオリジナルの方が良いと思います。「ヴェルーカ・ソルト」ならまだともかく、「イボダラーケ・ショッパー」なんてあまりにもあまりにもわざとらしい名前ではないでしょうか。そこから物語のリアリティに疑問が生まれてしまうと思うのです。
こういう訳者のセンスというのは訳文全体に関わることです。機会があったら、以前の訳本との比較してみたいと思ってしまいました。
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