ロバの耳
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2005/02/12(土) 歴史・高千穂
 旅の記録、南九州編の中で触れた「高千穂はどこにあったのか?」について、哲学者の梅原猛が一つの解答を出しています。

 梅原猛は、高千穂がどこであったのか、天孫族がどういう人々であったのかということを知るためには、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの出会いの地、「笠沙のミサキ」の場所が重要だといいます。そしてそれは鹿児島の野間半島であろうと。

 そうするとルートからいって朝鮮半島からではなく中国南部から高度な航海術と稲作文化を持った人々がやってきたと考えるのが自然だと。そしてそこから宮崎の高千穂を目指した。距離的には霧島の高千穂の方がずっと近いのですが、あの一帯は稲作には向いておらず、また「高千穂」という山はあっても地名がないのが少し弱いということです。
 九州の稲作は天孫一族の渡航よりずいぶん昔に伝わっいて、適地はすでに他の豪族達に押さえられていた。そこで西臼杵の高千穂まで移動してこざるをえなかったというわけです。

 さらに氏は高千穂の山に囲まれた地形が飛鳥の地によく似ていることから、神武天皇の東征後、先祖の土地の記憶から飛鳥に都を開いたという推理までしています。

 あくまで一つの推論ではありますが、とても面白い思いました。


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