ロバの耳
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2005/10/03(月) 本・「欧米推理小説翻訳史」長谷部史親 本の雑誌社
 原書を読む語学力がないゆえに外国の小説は翻訳に頼らざるをえないのですが、そうなると原作者の文章力と同程度かそれ以上に、訳者の文章力の有無が重要になってくるわけです。

 本書のディクスン・カーのくだりでも触れられているように、訳の出来不出来によってその作家の日本での人気・不人気、評価等がさだまってしまうわけで、その点カーは不運な作家と位置づけられておりますが、ここで紹介されている訳者ではない方の訳にもかかわらず、私もカーを読んで面白いと思ったことのないミステリ・ファンの一人です。

 実際、文章としてごたつきのある訳というのは読み手を拒絶するようなところがあります。私は常々、海外のミステリ作家ではコリン・デクスターやP.D.ジェイムスが好きと言っていますが、それは大庭忠男さんや青木久恵さん(もちろん小泉喜美子さんも)の訳が好みにあっている、と言っても過言ではないのかもしれません。

 それにしても、他の分野ではどうかわかりませんが、訳というのも一度されるとそれが既得権のように認識されるのか、ミステリの古典とされている作品で、戦前から活躍されていらっしゃる方の訳がいまだに使われていることが多いのに驚きました。新潮社のホームズ・シリーズの延原謙など、大正末期から昭和初期にかけてすでに活躍されている方なのですね。

 名作ばかりではなく、名訳も時代を超えて残っていくということでしょうか。


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