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2004/07/22(木)
新説・池田屋事件
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18日の日曜日の大河ドラマ『新撰組』はついに「池田屋事件」をやりました。
私はこれまで1話も『新撰組』は見ていなかったのですが、今回の「池田屋」は従来語られていたものとは違う、史実に基づいた本来の姿が初めて映像化されたものらしいです。 それに呼応してでしょうが、先週の『その時歴史は動いた』でも『歴史街道』の今月号でも「池田屋事件の真実」という特集が組まれておりました。 しかし、ちょっと疑問に思うのは、名前だけは認知度の高そうな「池田屋事件」の詳細を一般の人がどれほど知っているのかということです。 「新説!」と高らかにうたわれても、従来の話がどのようなものだったのかを知らなければなんの感慨もないような気がするのですが。 今回はその新説の中で、私が「へぇ」と思ったことがらをいくつか紹介したいと思います。
志士・古高俊太郎を拷問にかけて御所に火をつけようとしている計画を自白させた新撰組は、その古高を救出・計画の即時実地、中止を決めるための志士たちの集会が開かれるという情報を入手します。 (この前年、政変があって、長州は尊皇派公家七人とともに西に落ちている。その巻き返しをはかろうと過激尊皇志士たちはクーデターを考えていた) 新撰組は守護職・会津藩兵の出動を要請しますが長州との本格的な戦いを恐れた会津の腰は重く、新撰組は単独での探索を決意しました。 本命とされた四国屋に土方率いる20数名が向かい、次点の池田屋に近藤の率いる10名が向かいます。結局、志士たちがいたのは池田屋でした。 近藤は土方隊に伝令を飛ばすとともに沖田・藤堂・永倉・周平(近藤の養子)の五人で池田屋に切り込みます。
私が「へぇ」と思った新説その1は、新撰組が 近藤隊10名と土方隊23名に分けられた理由です。 これまでは四国屋、池田屋と本命が二つあったからと言われていましたが、実は四国屋というのは池田屋のご近所なのだそうです。確かにそれならわざわざ二手に分かれる必要はなさそうです。 隊を分けたのは近藤隊は四条の橋を渡って鴨川の西側を三条橋方面へ、土方隊は渡らずに東側を行くという 二つの探索ルートをとったためらしいです。つまり、探索を始めた時点で特に本命の場所というのはなく、店や旅籠を虱潰しにしていくため、土方隊のとったルートの方が祇園という繁華街だったので人員が必要だろうということで二倍の人数が裂かれたのです。 こちらの隊は必要に応じてまた10人ずつの二隊に分かれることができるという目算でした。実際、土方隊が池田屋に到着すると、井上に10名を与えて池田屋内に突入させ、土方自身は残りをひきいて周りを固めるというフォーメーションを組んでいます。
私が「へぇ」と思った新説その2は、池田屋に切り込んだ隊士の人数です。 突入したのは近藤、沖田、藤堂、永倉の4名で、近藤の養子、周平は実は突入していなかったそうです。 これまで周平が突入したとされてきた根拠は、近藤の実家あての手紙にそう書かれていたからなのですが、これはどうも実家に無断でとった養子にはくをつけるためだったらしい。近藤は実際は、10名の隊士を3名は表口、4名が突入、3名が裏口を固めるというふうにわりふったようです。
私が「へぇ」と思った新説その3。それは池田屋に切り込んだ後の近藤の行動です。 近藤は突入後、2階に見回りが来たことを知らせた主人を押さえ、表階段を駆け上って様子を見に出てきた北添を切ったと言われていました。 ところが、新説では近藤は表階段はのぼらず、主人にくっついて裏階段をのぼって二階の奥座敷に行ったらしいのです。そして「刃向かうものは斬る」と宣告した上で戦闘が始まりました。 志士たちは窓から裏口に飛びおりる者が多数いたので、裏口を固めていた3人では押さえきれなくなり、(この3人はいずれも重傷を負う。うち1名死亡)沖田が近藤に「ここは私にまかせて裏口へ」と言い、近藤は階下へ移動しました。 沖田がこの現場で喀血したのは事実のようです。
これは余談なのですが、昔からどうして映画『蒲田行進曲』では、風間杜夫扮する土方が池田屋で戦っていて、切られた敵の平田満が階段から落ちるのかよくわかりませんでした。 これは従来説の近藤が階段で北添を斬るというシーンが土方と取り違えられてるのですね。
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