ロバの耳
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2004/11/10(水) 映画・『笑の大学』監督/ 星護
 『笑の大学』
 戦争への道を歩み始めた時代、娯楽である演劇などは規制され、台本も上演前に検閲を受けていてます。
 お上の威光をかさにたて、「心の底から笑ったことがない」という警視庁の検閲官(役所広司)と、「笑の大学」という喜劇一座の脚本家(稲垣吾郎)が、取調室で「笑い」に対してしのぎを削る戦いを繰り広げます。

 何か微妙なノリで、最初のうちはどう見たものか、イマイチ感覚がつかめませんでした。
 中盤あたりからようやく面白くなってきましたが、どうも演出がくどいというか、わざとらしいというか、手放しで「良かった」とは言いにくい作品です。
 映画というより、どうも舞台っぽいんだよなぁ、なんて考えていたら、脚本が三谷幸喜。どうりで好みじゃないと思いました。

2004/11/09(火) 落語・『味噌蔵』八代目 三笑亭可楽
 今日もしわい噺でした。
 それも八代目の可楽。何度も申しますが、独特の喋りがたまりません。

 ケチで有名な味噌問屋の旦那。奥さんが、実家でめでたく男の子を出産したというので、子供の顔を見るために店を離れることになります。
 さて、旦那がいなくなると、日頃から倹約倹約で鬱積の溜まっていた店の者たちは、「鬼の居ぬ間に」ということで、美味しい物やお酒を好き放題頼み、店を早じまいして宴会を始めます。
 ところが、風の強さに火事を心配した旦那が帰ってきて・・・。

 八代目の可楽も人気が出るまでかなり時間がかかったようです。襲名は戦後すぐだったそうですが、人気が出始めたのは昭和三十年代に入ってから。志ん生と同じような感じですね。
 志ん生も可楽も、私が生まれる前に亡くなった師匠方。生の高座を見てみたかったです。自分があの世に逝ったとき、その名人芸を見ることができるといいのですが。

2004/11/08(月) 落語・『死ぬなら今』八代目林家正蔵
 名人・八代目林家正蔵の亡くなる三年前、最晩年の高座の録音です。
 声のふるえ方はまさに弟子の菊蔵が真似しているそのまま。それはまぁ、いいのですが、さすがにテンポの遅さは気になりました。

 しわい家、つまり「ど」がつくほどのケチが主人公です。
 ケチ家ケチ兵衛とあだ名されているほどのケチさで一代で財をなした大店の旦那、いまわのきわに息子に遺言をします。
「俺は金を儲けるためにずいぶんあくどいことをやってきた。このままだと地獄行きは間違いないだろう。そこでお前に頼みがある。ずだ袋にいれるさんずの川の渡し賃の六文銭、その代わりに黄金三百両を入れておくれ」
 息子に「必ず守る」と約束されて、旦那はホッとした拍子にぽっくり。
 ところが、葬儀で息子が三百両を入れようとすると、お節介な親戚がこれを止めます。「どうせ土に埋めるんじゃねぇか。芝居の作り物の小判で充分だ」息子もついその言葉に従ってしまいます。
 さて、あの世に逝った大旦那、閻魔大王の前に立たされて、これまでの悪行を次々と暴かれてしまいます。そしてついに地獄行きの沙汰を申しつけられようというとき、ずだ袋から小判を取り出し、閻魔大王の袖の中に投げ込みます。とたんに態度が豹変する閻魔様・・・。

 オチが気が利いていて、好きな噺の一つです。以前に聞いたときは誰だったか・・・その時も正蔵だったかもしれません。この番組は再放送ですからね。

 八代目林家正蔵は、前の名を五代目蝶花楼馬楽と言っていて、本人は五代目小さんを継ぐつもりでいたようです。落語史的に馬楽は小さんを襲名する前の名なんだそうですね。
 ところが当時の小三治が五代目小さんを継いでしまいます。それでへそを曲げるのですが、「小さん」と同格の大看板「正蔵」を七代目林家正蔵の遺族(海老名家)から一代限りの約束で借りるということで話がつきます。
 ところが、七代目の長男であり、「正蔵」を継ぐはずだった三代目林家三平が1980年(昭和55年)9月に亡くなってしまいます。そこで生きている間に正蔵の名前を海老名家に返す決心をして、1981年(昭和56年)1月に「林家彦六」に改名したのだそうです。しかし、改名後一年で亡くなってしまったので、いまだに「正蔵」という名で呼ばれることが多いのだそうですね。
 この経緯からすると、こぶ平が「正蔵」を継ぐのは妥当といえば妥当なんですよね。
 問題は、それだけの大看板を背負う実力があるのか、ということで・・・

2004/11/07(日) プリンタ問題&新しい家族
 新しいプリンタをPCにつないでから、色々問題が起こり始めました。
 一つは「コンピュータ保護のため、このプログラムはWindowsにより終了されました。 Generic Host Process for WIN32 Services」と出てしまうこと。
 もう一つはデジカメをUSB接続しての画像転送ができなくなってしまったこと。
 この二つの問題を解消するため、夜はPCの前にずっとへばりつき状態でした。いろいろ調べた結果、HP社のデバイスとWindowsSP2の相性が悪いせいらしいのですが・・・。
 いい加減疲れたので、HP社に直接質問メールを送りました。

新しい家族
 上記のような問題が起こらなければ、こちらの嬉しいニュースを報告するだけだったのですが・・・。
 うちにミニチュアダックスフントがやってきました。
 もう十日くらい前にペットの里親探しHPを検索していたら、仙台の方で、生後二ヶ月のダンックスフントを事情により手放すので、里親を捜していますというカキコミがあり、すぐに問い合わせてみました。
 さすがにいざ手放すとなると決心がつかないらしく、お返事に2週間の猶予をくださいと言われたのですが、今日、その返事が来て、引き取ってきたというわけなのです。
 8月21日生まれの男の子。まだ赤ちゃんです。甘えん坊でとにかく人の膝の上に乗りたがります。今のところ、全然吠えない良い子です。
 名前は「コータ」に決まりました。これは前の飼い主さんが「コタロウ」と呼んでいたことと、自作の小説に出てくるキャラクター名とに由来します。(前の飼い主さん、旦那さんの方は「サスケ」と呼んでいたそうなので、名前はまだ固定していないらしい)
 本当はデジカメで撮った画像を載せたいところなのですが、上記のような理由で載せることができません。
 問題解決後に載せたいと思います。

2004/11/06(土) オールインワン・プリンター
 我が家にオールインワン・プリンターがやってきました。
 HP社の最新モデル、『Photosmart2700』です。
 出資者は父親。蔓工芸品を売って貯めていたお金で買わせてしまったのでした。
(私と母も一部協力)
 従来使っていたプリンターは有線LANで繋がっている前のPCを経由しているため非常に使い勝手が悪くなり、しかも前のPCの調子が悪くなってしまったため、「今年の年賀状印刷は厳しいよ」と脅かしたら、購入の運びになったのです。
 これ一台でプリンター、スキャナー、コピー、FAX、画像取り込み、処理など様々なことができます。凄いものです。
 今は有線環境ですが、高速無線LANも内蔵しているので、おいおい無線化していくつもりです。

2004/11/05(金) 本・銭形平次捕物控(六)『結納の行方』野村胡堂 嶋中文庫
 今回は、謎の提示になかなか良いものが多かったです。解決が少し物足りない感じもしましたが。

 表題になっている『結納の行方』は、馬に積んでいた結納金三千両が、届け先に着いて中を開けると砂利に変わっていた、という話。まるで最近流行のマジックのようなネタですね。

 設定で面白かったのは『麝香の匂い』。大通気取りの大店の若旦那が遊郭でお気に入りの遊女たちや幇間、用心棒などと、店の灯りを消しての目隠し鬼をやります。その鬼役の用心棒が脇差しで一差しで殺され、幇間は庭の大石に打ちつけられて虫の息。嬌声が悲鳴へと変わります。

 平次の物語、よく文中に一両の価値についての記述が出てくるのですが、この文章が書かれた当時の価値比較なんですね。ちなみに『結納の行方』に出てくる記述を引いてみると…。

「一両はざっと四匁、その頃の小判は一枚でも今(昭和10年頃)の相場にして六十円ぐらいにつくわけで、三千両の値打ち、直訳して十八万円、経済力は三十万円にも相当するでしょう」

 『一文と一両の価値』というサイトには江戸時代のものの価値と現代の価値が比較してある表があって面白いのですが、その中でもっとも簡潔に比較したものを引きます。

 食べ物で比較すると、1文=5〜30円、1両=4〜20万円。
 労賃だと1文=30〜50円、1両=20〜35万円くらい。

 この価値で上記の引用文を現代価値に改めると…。

「一両はざっと四匁、その頃の小判は一枚でも今の相場にして二十万円ぐらいにつくわけで、三千両の値打ち、直訳して六億円、経済力は十億円にも相当するでしょう」

2004/11/04(木) 画像・現場の紅葉
 二年越しの現場、今年も紅葉が見頃になってきました。

 画像を見ていただければわかるかと思いますが、法面に作られている枡形の部分の工事でした。(私が作ったわけではないのですが)工期は今年中ですので、もうすぐ終わりです。
 ちなみに10月22日の日記に書いた、危機一髪の現場画像でもあります。

2004/11/03(水) 危ないです
 一昨日の火曜日、NHKラジオでやっている『気になる言葉』で「形容詞」+ですの問題を扱っていました。

 駅のホームに立っていて、電車が入ってくるとき、「危ないですので白線の後ろ側までお下がりください」というアナウンスがありますよね。
 『気になる言葉』を聴いている人たちの中で、このアナウンスが気になるという人がいるんです。問題の箇所は、「危ないですので」。
 コーナーの担当者、アナウンサーの梅津正樹氏によると、この言い方は戦前までは間違った言葉使いとされていたというのです。つまり、「です」は「だ」の軽い丁寧な言い換えで、「だ・です」は体言につく言葉だから「危ないです」「美しいです」「美味しいです」「ありがたいです」等は全て本来的には間違った用法であるというのでした。
(どれもに標準語としては「だ」に置き換えられませんよね)

 しかしです。仮に危ないを名詞(体言)化して「危険」としても
「危険ですので」が「危険だので」とはなりませんよね。この場合は助詞である「ので」を「から」に変えるか、「危険」という名詞を「危険な」というな形容動詞に変え、「だ」を省略しなければなりません。
 とすると、「危ないですので」の雑な言い方は「危ないので」と「だ」を省略化すればよい、逆に言えば元から「だ」の言い換えであることに固執せず、「です」は単に軽い丁寧な言い方をするときに使用される助詞と考えれば良いことにはならないでしょうか。

 というか、むしろこのようなことを考えるつれ、果たして言葉に正解・不正解があるんだろうか?という想いが強くなります。

 以前から何回か、この『気になる言葉』のコーナーには「ある言葉を正しい、間違っている」「美しい、美しくない」と決めつけるのはどうか、という投書を送っています。
 言葉に対して興味を持って面白がるのは好きなのですが、正誤や美醜に目くじらたてるのはどうでしょう。個人の価値観に過ぎないのですから、自分は自分の信念、価値観に基づいた言葉を使えばそれで良いと思うのですが。英語圏の人に「日本語の方が美しいから日本語使え!」なんて強制するのは、ブラック・ジョークの世界だけのことでしょう?

 10月31日の朝日新聞の朝刊の四コマ漫画『ののちゃん』には、日頃から今の「日本語」に対して叫ばれているある認識に対する私の想いが端的に語られていて、とても嬉しかったです。

(ひとみ先生が黒板に「美しい日本語・正しい日本語」と書いて)
ひとみ「うさんくさいですね。神さまや仏さまじゃあるまいし
   いったいどうやって『美しい』や『正しい』をたしかめるのでしょう」

ひとみ「わたしたちは言語を操っているのではなく、
   言語の世界の住人にすぎません。
   だから死語や新語をだれも止められないのです。」

ひとみ「コトバによって得られたおたがいの信頼が美しかったり
   正しかったりすんですね……って月曜の授業なんだ」

ひとみ「ちょっとウザイかなぁ」
ハルコ「ヤバイくらいがオマエらしいよ」

 

2004/11/02(火) 映画・『SAW』ジェームズ・ワン監督
 M・ナイトシャマラン監督の新作なんか観るくらいなら、絶対にこちらの方がお勧めです!

 中年医師のゴードンと若き写真家アダムは、気が付くと見知らぬ地下の密室に監禁されていました。足首は配管に鎖でつながれていて身動きがとれません。そして二人の間には一体の死体が……。
 気が付くとカミソリワイヤーに周囲を囲まれて身動きがとれなくなっていた者。気が付くと可燃性の液体をかけられ、そばにローソクの火が点された部屋に監禁された者。気が付くと顎を上下に引き裂く仮面を頭にはめられた者。
 それぞれに脱出手段は用意されているというゲーム殺人。その首謀者ジグソー≠フ魔の手に、二人は落ちてしまったのです。
 ジグソーが吹き込んでいったカセットテープによれば、制限時間以内にゴードンがアダムを殺さなければ、ゴードンの妻と娘の命は無いと言います。はたして二人は、ジグソー≠フ提示するいくつかの手がかりを元に、この密室から無事脱出することはできるのでしょうか?

 とにかく意外なラスト。それだけに多くは語れませんが、これは見て損の無い作品です。
 ジェームズ・ワンはオーストラリア出身の26才の新鋭監督。この手の映画を見ると、お金をかけなくてもアイディア次第で面白い映画は撮れるんだとつくづく思いますね。

2004/11/01(月) 落語・『淀五郎その1』 五代目古今亭志ん生
 志ん生の『淀五郎』、大好きです。実はCDで同じ音源を持っているのですが、何回聴いても楽しめます。

 市村座で忠臣蔵通し狂言の直前、判官役の澤村宗十郎が病で倒れてしまいます。そこで座長の市川団蔵は若手の淀五郎を代役に指名しました。しかも団蔵の向こうを張るというので名題に抜擢。淀五郎は大喜びします。
 ところが四段目の判官切腹の場で、本来腹を切る判官のもとへ寄ってくるはずの由良助役の団蔵が、花道に座ったまま動きません。淀五郎は、しかたなくそのまま腹を切り、幕がしまってから団蔵に訳をたずねに行きます。すると……。
「あんな腹の切り方があるか。あれは判官じゃねぇ、ただの淀五郎だ。由良助は淀五郎なんぞに用はねぇ」
「ではどうすれば良いでしょう」
「本当に切れ」
「本当に切ったら死んでしまいます」
「本当に死ぬんだよっ!」
 一晩練習して二日目を迎えますが、やはり由良助は判官のところに近寄りません。
 思いつめた淀五郎は、明日は団蔵をつっ殺して、自分も本当に腹を切って死んでしまおうと決めてしまいます。そして皆に暇乞いをし、最後に自分を可愛がってくれている中村座で座長をつとめる中村仲蔵のもとを訪ねるのですが……。

 ご存じの方にはいまさらなのですが、沢村淀五郎、市川団蔵、中村仲蔵は江戸時代後期に現存した歌舞伎役者です。実在の役者が登場する落語としては、この噺で淀五郎に演技指導をする中村仲蔵自身の若き日の噺、『中村仲蔵』もあります。(その噺もすごく面白いです。一度しか聞いたことがないのですが……また聴きたい)

 この話はある年齢を達した大看板でないと出来ない噺とされているそうです。有名どころでは六代目三遊亭圓生とか、八代目林家正蔵が演ったそうですが、残念ながら聴いたことがありません。

 ローマ人の物語『ユリウス・カエサル ルビコン以後〈中〉』 塩野七生

 カエサルは、ポンペイウスとの最終決戦に勝利し、エジプトへの遠征、クレオパトラとのロマンスなどを経て、地中海全域の制圧に成功します。しかし、首都ローマでの内政を任せたアントニウスの失政で、兵士の従軍拒否、経済停滞という状態が生じます。
 帰国後、巧みな手腕で問題を解決したカエサルは、北アフリカとスペイン南部で蜂起したポンペイウス派の残党を一掃。そしていよいよ新秩序樹立のための改革を次々と断行していきます。
 しかし、その改革の途上、五十五才の彼に、ついに運命の日がやってきてしまうのです……。

 領土や属国が巨大化したゆえに、元老院主導のローマ型共和政は機能しなくなりつつありました。広大な領土の統治が機能的になされるには、何よりもまず効率性が求められます。カエサルは、六百人の元老院議員から、一人の人間による帝政に、国政の決定機関を移行させようと考えたのです。
 そして世界都市としてのローマの再開発、公共設備の充実、属州や他民族への権利の平等化、安全保障などによって、世界平和、ローマによる平和をうち立てようと考えていたのでした。
 公的な警察機構を成立させたり、教員、医師という職業を保護して人間社会での彼らの重要性を公式に認めさせたり。カエサルはまさに、現代社会の雛形を、今から二千年前も前に整備していたのです。

『Eine Kleine Nachtmusik』

 私は特にクラシック好きというわけではないのですが、それでもモーツァルトの『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』くらいはCDで持っています。

 この『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』という題を、私はもうずいぶんと長い間、「響きがカッコイイな」くらいにしか思っていなかったのですが、ドイツ語をちょっとでもやった人が見ると、笑ってしまうくらい簡単な単語からできているんですね。
 「アイネ」というのは不定冠詞。「クライネ」は「小さい」。「ナハト」は「夜」で、「ムジーク」は「音楽」。だから以前は、「小夜曲」などと訳されたりしたらしいです。
 こういう具合に、知らずに使っていた外国語の言葉を訳してみたらなーんだっていうこと、良くありますよね。音楽家で有名な「バッハ」という名前も、日本語に訳すと「小川」さんなんです。

 ドイツ語のテキストでエッセイを連載されているオーボエ奏者の茂木大輔さんが今月号で、この『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』について書かれていました。私が感じた「なーんだ」っていうのと同じ感覚と、それ以上に面白い『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』についての不思議を。

 前述したように、「クライネ」というのは「小さい」という意味です。だから、この曲は小品なのかというと…実はそうではないのだそうです。
 楽章は今は四つですが、メヌエットがひとつ失われていることがわかっているので本来は五つでした。その全ての楽章が堂々たる規模と楽想を持っています。同じ「セレナーデ(ナハトムジーク)」という曲名でも、管楽器が三人だけとか、もっと簡素なものはたくさん作曲されていて、むしろ『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』は「非常に大きなセレナーデ」と言えるのです。
(ここのくだり、全て茂木さんの受けうりです。念のため)

 はたして、そんな作品に、なぜ「小さい」という形容詞がついているのでしょうか?
 茂木さんは、モーツァルトのユーモアだと解釈しています。凄い贈り物をするときやご馳走を作ったとき、「ちょっとしたものなんだけど……」というのと同じ感覚だというのです。さらにそれを裏付けるのが、不定冠詞eineの存在。これは後続する文章を意味深にする機能があるらしいのです。

 モーツァルトはかなりちゃめっけのある人物だったという話を聴いたことがあります。そう考えると大作に「小」とつけたのは、彼流の皮肉、ジョークだったのかもしれません。
 そんな題名を○十年間も単純に「響きがカッコイー」なんて思っていた私。
 知らないということは、恥ずかしくも恐ろしいものですね。

 


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