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2004/07/02(金)
Mさんとの長話の末
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2004/07/02(金) 01:12 ピアノの生徒さんと、長話をしました。
言葉で語りつくせない部分を、レッスンで受け取ってくれる。
Mさんは、そういうひとです。
言葉でちゃんと説明できるよう、勿論僕も努力はしていますが、
音の微妙なニュアンスとか、そういうこととなると、
やはり言葉で伝えるのは難しい。
そんな時、言葉を捜す僕を見て、
Mさんは一生懸命言いたいことを汲み取ろうとしてくれる。
Mさんは、時折、音楽のことで、質問のメールをくれる
とても熱心な人です。
優しい音を出す人です。
なぜでしょう? 彼女に限らず、優しい音を奏でる人は、
どうも、人の良さや味について、敏感に感じ取り、評価
するのが凄く上手なのに、自分の事となると、低めに評価してしまう
傾向がある。
生徒さんに限らず、そういう人と、僕はたくさん出会ってます。
何人も思い浮かぶ中、数人から、ヒカルは、純粋だ。との
ひたすら照れるしかない評価を頂きました。
勿論 そこまで言われちゃうと、「そうでしょう?
僕は純粋なのよ〜〜!」ともいえず、「いや〜そんなことないですよ
デレデレ・・・。」 などと、あやふやな謙遜をするわけです。
でも、そろそろここではっきり、正直に言葉にしとくべき
時期が来た気がします。
僕は 不純な部分もちゃんと持っています。
音楽のお陰で、純粋な心になったり、
神聖な気持ちになったり出来ますが、
素に帰れば、そんなにたいした器の人間ではありませんし。
んで 気がついたんです。
意外に多くの人が生まれ持った純粋な部分を、
日々の現実に追われるうち、周りに
こびりついた、汚れのせいで、汚れてしまったと勘違いしてる。
それは、付着してるだけで、染み込んでるんじゃないから、
汚れのないものに触れたとき、共鳴できて、嬉しくなれる。
汚れた気持ちも、純粋な気持ちも、両方ある事を、
他の人には認められるのだから、本人も認めたらいいのに。
って思ったんです。僕自身も含めて。
大人だから 謙遜 も多少はしますが、
人を誉めたとき、素直に喜んでもらえるように、
僕も誉められたら、ほんのチョット謙遜しつつも、
素直に喜ぼうと思いました。
自分がケガレてると信じてる時って、
純粋 って誉め言葉が、
世間知らずの 騙されやすい ただの 馬鹿。
に聞こえちゃう。そういう時期がありました。
最近はそう思わなくなったけど。
以上が
誉め上手なMさんとの長話の末思ったことでした。
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