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2004/10/21(木)
だまし について
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皆さんこんにちは。
出世観音に行ってきました。
神社 お寺 を参拝する時、僕の友達のTさんは
そこで祭ってる神様や、仏様や、家紋みたいなもの
が頭に浮かぶと言います。
やっぱり うらやましい。
ちゃちなやきもちと知りつつ・・・。
幽霊は見なくていいけど、そういう神聖なものは
視覚的な感覚をともなって感じたい。
でも その欲望は、随分落ち着きました。
そこを通り越して、ご利益は(漢字にしちゃうと
りえきって読めるねコレ。ゴリヤクなんだけど。)
ちゃんといただいてるし。
俗に言う現実化と言う形で、視覚的にではなく
感じてることが現れてくるのは、凄く実感してます。
雨の中 出世観音に行った帰り、気にかかっていた
あの人たちから、そして、初めて聞く声の、
体験レッスンの問い合わせが、
ガンガン僕の携帯をならし、僕の車は
しばらく空き地に立ち往生しました。
話は戻りますが、Tさんが、僕に言っていたこと
思い出しました。
「べつに 霊感あったって人の事
救えるわけじゃないぞ。」
その時 Tさんは切ない顔してました。
僕にしてみれば、そもそも
人と助け合う事は出来ても、
“救う”って事は、できない。
“救う”って事は、僕にとっては
もっと重い響きがあり
ちゃんと悟りを得てる人
や神様仏様のたぐいのみができることで、
人間同士は、助け合うけど どうも
なんか “救う” っていうのは違う気がしてる。
我ながらそこのところには凄いこだわりがあります。
多分僕自身 救う 事と 救われた気にさせることの
違いに、凄く危険なものを感じているのでしょう。
それで悲しい思いもした覚えがあるし。
そんなことに思いをはせていると、
OKな“だまし”人としてやっちゃいけない“だまし”
とがあることに思い当たりました。
その道のプロのみに許された ダマシ です。
人を騙す っていうと、凄く聞こえが悪い。
でも、最近僕が尊敬するそれぞれの道の
プロたちは、素晴らしい 騙し のテクニック
を、僕に見せつけてくれる。
リフォーム1つとっても
プロ中のプロになると、寝転がった時の水平
な床と言うのは、健康にも関わる大事な部分で
それを守ると、家が古いほどでてくるもともとの
枠組みの歪みとのギャップで下手をすると水平な
新しく貼った床板の方が、斜めに見えちゃったりするのを
うまく 錯覚などを用いて だます。
素人にはとうてい真似できない視覚的、色彩的な
錯覚を屈指して だます。
僕にとって 汚い響きさえあった ダマシ という
言葉が、ここでは 素晴らしい物以外の何者でもない。
手品だって だましの最たるものです。
その中には、やっぱり、タネがわかってても(仕事柄
舞台裏でそのステージを見れるチャンスもあったので。)
とうてい真似できないトリック(だまし)が、沢山ある。
よくよく考えてみたら 音楽の世界にも“だまし”
がいっぱい存在する。
メロディーフェイク、フェイクピアノは、
直訳すれば メロディー騙し、騙しピアノです。
他にも ダマシがあって、レッスンしてても、
騙すつもりはさらさらなく、曲中に一度曲をとめ、
少し話を交えて僕自身無意識にキーを
変えてるときがある。
その後 「実はね 2回目と3回目キー変えたんだけど
1回目と3回目は 同じキーだったの。3回目のが
歌いやすかったでしょ? 何故だかわかる?」
みたいな ダマシを使う事で、本人の
思い込みによってでない声は、別の思い込みによって
黒が白になるぐらい劇的に、でるようになります。
よくよく考えれば もうすでに自分がしている事も
含めて 騙し と言う言葉に新たな認識が生まれました。
騙す と言う行為は あくまで いいものでは
ないけれど、それぞれの使命のなかで、それらは、
何の罪悪感も伴なわず存在していて・・・
ううん なんか難しい言い方になっちゃう。
まあ OKなだましと
人として絶対やっちゃいけないダマシがあって、
騙し に抵抗感が強かった僕が、
いつの間にやらそのダマシを使っており、
また尊敬するプロのそれに感動を覚えることさえ
あるって事で・・・・。
なんか旨くまとまんないけどそういうこと
でした。
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